前回に続き、釜山を訪れ感じた韓国人の魂のありようについてより深くみてゆく。
韓国人に対する、かの土地に訪れて感じた、ある明瞭なるもの。それが、彼らが国民共通のアイデンティティなるものの希薄さということの持つ意味とは。
まず普通一般の国民と支配層のような人々との間には大きな溝があるだろう。全体として民族全体が親和的に共有する意識が生まれ得ない社会構造。
このように民族として、国民共通のアイデンティティが希薄な社会では、全体主義、独裁主義、共産主義といったような体制が生まれやすいし、かつ必要とされる。
そのような強権を発動する社会でなければ人間を繋ぎとめておく事ができないからである。国民は家族一族の繋がりは強固でも、民族意識があっても、国土や国家を背負う共有意識が薄い。
一方で、このことは、キリスト教が朝鮮半島においてかなり浸透したこととも関係があるだろう。
人の魂が国土や国家に根付いていない社会においては政治的に強権な構造が必要となる。
しかし権力が弱まればその権力にはもう誰もついて来ない。信用は急激に失墜し、二度と振り返ることもないだろう。
彼らを見ていると、一見、ある種のスマートさやクールさを感じるが、反面、非常に冷淡だ。そういう雰囲気というものもこれに起因している。
何か、魂からのほがらかさのようなもの、陽気暮らしといった感覚も希薄である。一方日本人にはそういう感覚がある。そして、日本人にはクールさはないが、静かで、不器用というか生真面目さがある。
韓国に来て、政治的強権というものが必要とされる社会がどんなものかが明確に理解できた。
「なるほどこういうことなのか」と。
その土地に漂う空気を実際に味わうことの重要さを改めて感じる。
基本的に韓国も北朝鮮も本質的な国民意識に大きな違いはないだろう。多少表面的な体制が違うに過ぎない。
戦前の日本であれ、戦後の日本であれ、いずれと比べてもこの国、この土地、この民族は明らかに日本人とは異質である。
彼らは何か事が起こると非常な大声をあげる。行動も激しくエキセントリックですらある。自分たちを取り巻く社会というものを本質的に全く信用できないと感じているからである。
日本人のように、何もかもが当たり前のように存在すると考えているような社会でも民族性でもない。
それは充分に理解すべきだろう。歴史が違えば人間の魂の有り様というものも違ってくる。
日本人に対する彼らの、ある種の非常な冷淡さは、権力を失った彼ら自身の政治家に対する非情さと全く同質のものである。
牢獄につながれた元大統領とかつての「日帝」は彼らにとっては全く同質である。
寂しくて悲しい国民の歴史と、人の魂と国土との繋がりがきわめて希薄であるということの意味する結実の情景である。
(写真 忠烈祀から見た釜山市街の光景)

