人間というのは複合的な構造になっている。物質的な肉体、肉体に依拠した意識、魂の部分など。
人は通常肉体に依拠した意識を自分だと思って生活している。人が意識を費やす部分のほぼ全ては、肉体を維持するために必要なことに関している。
食べる、住む、着る、稼ぐ、買う、異性間の肉体関係の問題など。恐らくこれだけで人の多くは意識の90%以上を使っているだろう。
肉体に依拠しないものは、純粋な意志や愛情、純粋に感情的なもつれなど。こういうことに意識の大半を使う人は変人か偉人か天才かあるいは犯罪者か狂人かもしれない。
神々は肉体的存在ではない。だから物質的なものはそれほど重視していないか、場合によっては見えない。
人は神様に様々なお願いごとをするが、物質的な事情のみに依拠した叫びは聞こえない。魂からの叫び声は聞こえる、だからお願い事が魂からのものであれば叶うことがある。
唯物的な人間というのは、魂や目に見えない世界を否定しているだろうから、肉体的な事情に伴う意識だけで普段生活している。
しかし、彼等に魂がないわけではない。意識と魂が乖離しているか、交流が断たれている。
どんな人にも深い世界からのメッセージを聞くことがあるが、唯物的な人はそれを無視するか、気のせいと考えるか、下らないたわごとと思って押し込んでいるということだ。
感覚的人間、感性が鋭い人、霊的人間などは、意識と魂の乖離が狭いか、ある程度、あるいは時として一体化している。
それでも人間は基本、物質に依存ざるを得ない存在であるから、どうしても物質的なことに心を奪われている。
キリストやブッダのような聖人と言われるような人を除いてそうだろう。
竹田恒泰さんが、自然災害から身を守るにはどうすれば良いかという話をしていた。
災害の起きる場所は自然神などの神様の通り道であったりする。だからそういう場所は避けるべきだと言っていた。
昔は土地の名前にそのようなことが記されていたが、最近は地名を変えて分からなくしている。良くないことだと。
人が山を登っている時、山道の中にある蟻塚を踏みつけることもあるだろう。莫大なエネルギーを費やして作ったものだから、蟻にとっては大災害だが、人はただ目的に向かって歩いていただけである。それと同じことだ。
神々の世界にとって、生きている人も、死んでいる人も大して差がない。
神々が見ているのは「その魂」の、「霊的世界」の有り様であって、それによって営まれている世界に興味があるだけのことである。神々にも自ずと仕事がある。
我々が今見ている、この物質的世界はその世界の部分的な反映に過ぎないからだ。
物質的に不安定な状況に陥った時。我々はそういうことをいろいろ考えてみた方が良いだろう。
物理的な変動にばかりに気をとられていると本質を見誤る。
物質世界が蠢き、変動する時、非物質的な世界は既にそれよりも先に変動している。
従って、このような時には非物質的な世界に目を向けることは、新しい価値観や生活スタイル、優れた発想や発明が産まれでるチャンスともなりうる。
流れが変われば様々な価値観も同時に変化していく。
人は世界の「器」を創造することはできないが、我々の生活に適した様々な物や価値観を創造することは許されているのである。
(写真;三輪山 奈良県公式サイトより)

