本日は令和六年の年替わりの日にあたる。たまたま私の誕生日でもあり、朝から東郷神社へ御祈願に伺わせていただいた。当初明治神宮を考えていたが、父親が海軍士官で私への遺訓として東郷会だけは続けて欲しい、と言われていたので、今年は特に心願があったため、東郷神社へ参詣させていただくことにした。
これまで個人的な心願というもので神社へ参拝することはほとんどなかったが、今年以降人生の終わりまでの間にしたいと思うことがまとまってきたのでお願いすることになった。
東郷神社の特徴的なところは御祈願の間、本殿正面に直立不動でいることである(ただし、椅子もあるので座ることもあるだろう)。恐らく初めての経験だと思う。いかにも軍人の神社らしい感じがして気が引き締まる思いがした。
尚、境内の霊社「海の宮」には、海軍、海事、水産関係者及び崇敬者の御霊を合祀奉斎していただけるとのこと。
明治以降の祭神を祀る神社に対して反感を抱く人を時折見る。東郷さんは神格化されることを嫌ったのだから神社に祀るのはおかしいという人もいる。
それを言ったら、日本国内の江戸以前の神社の大半も同様であろう。神社の創祀というのは、生きている人間が故人の御霊や神霊をお祀りしたいという発意によって起こるものであり、祀られる当人が望んで起こることではない。ただし、神霊は別の場合もある。
それに関係ない人や気に入らない人が、その神社が良いとか悪いとかいう資格自体がそもそも存在しない。もし、人々が望まない祀り方をされた神社があるとするならば、ほどなく人が集まらなくなり自然と廃れていくだろう。
日本には様々な神様がおられる。
人によっては気に入らない神様もあるだろう。そのような場合、不満を述べることを止めて、その神様には近づかない、関わらないようにすることである。いろいろ不満を述べ立てていると、必ずその人の心中に悪魔的あるいは負の要素が侵入することになるだろう。そのような神々には畏れを持って接するという気持ちが重要である。
本来なら、自分がいかように思う神であれ、接する場合には「敬神」の心で接するのが、理想的な日本人の在り方である。しかし、それができない時はその神様のことを考えるのを「畏れを持って」止めることである。畏れを知らぬ者ほど恐ろしいことはない。
さて、今日が誕生日でない方も本日の年替わりに何か祈願を持って参拝するのは良いことかと思う。
これからの数年あるいは数十年は日本にとっても世界にとっても人類史上稀にみる大変動の時代となる。

