人格というのは分かっているようで実態はつかみがたい。
一見1個の人格のようなものがあり、それがその人物の本体をなしているように思われる。しかし、実際それを詳しく追っていくといくつかの断片、状況に応じた反応の断片が時々に形をなすだけで、揺るがぬ1個の人格などというものは存在していないように見える。
ある時はこう、違う時にはこう。外側の環境や状況に応じて意識の組み合わせを変えてひたすら反応を繰り返しているだけだ。あることが終わるともう次の瞬間には別のことが始まり別の状況に反応する。だから時として言動に齟齬が起こり破綻する。
人格は錯覚に過ぎず実体がない。モザイク画に似ており、遠くからみると一つの絵に見えるが、近づいてみると一つ一つのドットが人の顔だったりするものがあるがあれに似ている。タマネギの皮のようにむき終ると何も残らない。別の言い方をすると人格というのは人間の本質からするとツールのようなもの、着ている服のようなものだと言えるだろう。
では霊格はどうかというと、霊的な部分もまた、1人の人間の中に1個の霊的存在がその人間を形成しているわけではない。時と状況に応じて複数の霊的なものが入れ代わり立ち代わりその肉体に入り、何かを引き起こす。言動のトリガーを引くのも彼らだ。1つ1つの霊的存在には何等かの意識や意図があり、人格よりははるかに存在感がある。
多くの場合、人間の構造をこのように捉えた方が人との付き合い方が楽になるはずだ。
他人から人を見るということは自分自身の時々の状況に対する外側の反応を見せられているだけだと認識すべきだろう。他人という1個の存在を自分とは別物だと考えると本質を見誤る。
では、人間の本体とは何か。恐らくそれは人に応じて、いくつかのパターンがあるように感じているが、人格や霊格とは少し離れた別のところにいるかに見える。静かに状況を見ているが何かを積極的に行うわけでもない。そして、人間の本体は「自分」の状況を俯瞰し得る場所にいるが、多くの場合「人」は自分の本体を意識せず生活している。
人の本体は何かを学び知るためにそこにおり、知るべきことを知り、学ぶべきことを学び終えるとそこを立ち去る(死ぬ)。これを繰り返すことが魂の成長に繋がる。人間社会とは魂の実験場のようなものかもしれない。

