「般若心経秘鍵」は空海の遺作とされている。
ここで空海は般若心経に対して独自の解釈を展開している。
空海曰く、この経典は、七つの宗派(空海存命時の国内全ての仏教宗派を指す)のそれぞれの行法とその成果(目指すべき到達点)が示されているのだと言う。
そしてこう説く、
「説き方(アプローチ)には二つある。一つには詳しい説明や長い解説を用いて説くもの。しかしこれはあるところまでしか伝えられない限界がある。もう一方では象徴的な表現法を用いて真理を説く方法である。」
原文読み下しは以下、
「如来の説法には二種あり、一つには顕、二つには秘。顕機のためには多名句を説き、秘根の為には総持の字を説く。」(引用:空海「般若心経秘鍵」角川文庫)
また、
「人それぞれの分限に応じて、さまざまな教えや方法を行い、その目的を達成する。また、その理解の度合いによって達成までの時間は異なっている。」
原文読み下しは以下、
「照空は則ち能証の智、度苦は則ち所得の果、果は則ち入なり。彼の教に依る、人の智無量なり。智の差別(しゃべつ)に依って、時亦多し。」(引用:空海「般若心経秘鍵」角川文庫)
空海は顕教と密教の比較として、これを説いている。
またこのようにも言っている。
「医道にすぐれて詳しい医師が見れば、一般の人ではわからない道端の一草でも、それがなにに効く薬草であるかが見通せるし、宝石に詳しい人は、他の者が気づかない鉱石の中に、貴重な宝石がうもれていることが知れるのであります。このように、深い趣旨に気づくか気づかないかは、誰のせいでもない、その人の眼力に依るのであります。」(原文読み下し – 医王の目には、途に触れて皆薬なり。解宝の人は、礦(こう)石を宝と見る。知ると知らざると、誰か罪過ぞ。)(引用:空海「般若心経秘鍵」角川文庫)
仏教には随喜説法と言って、説く人の理解に応じて適切な言い方やり方を説く、という発想があるが、この書の中でもそれについて説いている。
とはいえ、
般若心経は縁起の法をコンパクトにまとめた経文だという発想でしか見ていなかった。
空海のこのような発想に驚いた。また、当時、国内外でも彼以外にこのような解釈をする者はいなかった。それについて、なぜ自分がそれを今説くのかということを書の中で解説している。
いずれにしても、このような空海の視点と発想は実に「日本的」だと捉えて差し支えないのではないかと感じた。
これを現代人の視点で見た時、そのまま世界のあらゆる宗教あるいは宗教的概念や思想の総体に対しても拡大解釈できるだろう。
世界宗教とか統一的宗教とかいう概念が欧米発で美辞麗句と共に語られる時、強制的で一神教的な強引さや、力の統一という方向性や結末が想像されてしまう。
〇〇ファースト
という発想も同様で、それを目指す特定の国が強大化した時、結局その国によるグローバリズムという方向に帰着するだろう。
要するに権力者が入れ替わっているだけだ。
「中国4000年」の革命の歴史もしかり。
何も変わっていないし変われない。
それはもう歴史が証明している。
これは聖書文明やChina文明の限界だと私は確信している。これまでの世界的文明の限界ということである。
〇〇ファーストもグローバリズムも行き着くところは結局同じということである。聖書文明圏の人々は結局、どれほど優れた思想であれなんであれ、どこまで行っても二項対立という視点やドグマから抜け出せないのではないのだろうか?
特定の思想や理屈への執着は、たとえそれが当初非常に優れたものであっても終局的に必ず劣化し、かつ人間同士の諍いを誘発する。
日本人はそれと違った形・視点・概念・方法論でまとめ得る。それこそが次の文明の源泉を形づくる。
神道に教えの強要や絶対視の概念はない。
併神配置で互いにネットワークを形成し、ゆるやかに統合している。特定の決まった教えがないから、他国の多神教文明よりもはるかに融和的である。
それが最も新しく合理的な解釈を世界に与えることになるだろう。それを日本人自身が自ら世界に示していかなければならない。

