人にはいくつもの人生が内在している。前世だけでなく、今現実に存在する人生とは別に、いくつかの人生を実は生きているのではないかと。
私のもうひとつの人生。それは朝の5時頃に始まる。ふと目が覚め、やがて仏壇に手を合わせ、神棚に深くお辞儀する。冬の寒い季節には、むくむくと肌着を重ね、無言で家を出る。とことこ、駅へと向かう。
早朝の電車の世界。労働の匂い。
仕事場にいる時、いつも笑顔で、ひたすら無心に、与えられたいつもの業務をこなして行く。人の良さそうな自分は上司からも比較的受けが良い。特に目立つわけでもないが、人の良さそうな笑顔を見せながら、ただ仕事をそつなくこなしてゆく姿は、模範的な労働者と言えた。しかし、だからと言って、それ以上どうということもない。ただそれだけの存在だ。
仕事場で、夕方前の休憩室から見える、海岸沿いにある、煙突の並ぶ灰色の街に、心細げに浮かぶ夕焼けを見ながら、少しだけ悲しみを覚える。日々の生活。
家に戻れば妻もいる、幾人か子供もいる。妻とは上手くやっている。妻も、とりたてて言うほどのこともない夫だけれど、満足している。いつも優しく、言葉少なく、ささやかではあるが、家族に収入をもたらしてくれる夫。自分は、時々やさしい言葉で元気づけてくれることのある妻を、心の底で頼りにしている。ぼんやりとした幸せを感じながら。
ただ生きる。
何も考えず。ただ生きる。時々心に笑顔を作って。そして時折少し悲しみながら。
ただ生きる。そんな生き方は、しかし時折人生の豊穣さを垣間見せることがある。
無心という心の隙間から豊穣なエネルギーがあふれだしてくる瞬間がある。
そんな瞬間に包まれることが時折ある。
ただ生きる人生。いままでずっとそこにあったけれど、はっきり知ることのなかったもうひとつの人生。しかし、今もそんな生き方を送っているもうひとりの自分が、これまでもずっとどこかにいたような気がしてならない。
思考は闇を生み出す。思考する自分とは、それはいつもの自分
思考という麻薬が、高揚感と期待感で人生を目くらまし、死に対する恐怖感を増幅させる。
私達は、思考の、その果てに何を見ようというのか。どうしようというのか。
ただ生きることに学ぶことがある。

