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人の魂が日本人になる瞬間

若い頃は日本という土地が窮屈に感じるものだ。

だから、ある人は海外に憧れ、日本を忌避したかもしれない。

そしてまたある人は、前世の自分を想う。

海外のとある地域に自分の心が執着して、その地域への思いを断ちがたい幻想に襲われることもあるだろう。

しかし、そこへ行ってみると、

その場所は、もう自分にとって「その場所」ではくなっていることに気づくこともある。

「時の経過」が自らの魂を変容させ、その場所をも変容させるからだ。

その後、人はふと神社を訪れる。

その魂は我に還り、神道が生み出す自然の「完璧」さの中に、「ぴりついた空気感」の中に包まれるだろう。

「畏るべき世界」の中に。

ただ単に、純粋の自然によってのみ生み出される、「自然の美しさ」と、

神道的世界観の中で、人との関りの中で産み出され、育まれる「自然の美しさ」とは、完全に別のものである。

この違いが理解できた時、その人の魂は神道から離れがたくなるだろう。

そして、その瞬間、人の魂は「日本人」となる。

それ以前の人は、厳密には、何人も「日本人」とは言えない。

逆に言えば、それ以降は何人も「日本人」となる。

そして、「日本人」として生まれたことに感謝し、あるいはこの土地に縁あることに感謝し、その「神髄」を守りゆかねばならないと決意するに至るはずである。

ついに「その人」は、ようやく「この場所」に至ることができた。

そして、ついにこう想うはずである。

神々がそこにいることに感謝し、その文明を守り、体現し続けてきた「天皇」の存在に畏怖するという、、、。

(写真:玉若酢命神社の八重杉、玉若酢命神社本殿、後醍醐天皇行在所址碑)

前世の記憶

知人と話をしていたら、その人はシベリア鉄道をハバロフスクから西の果てまで1週間もかけて旅したらしいが、その時思ったらしい。

「自分の前世の肉体がこの辺に埋まっている気がした。」

誰しも、訳もなく惹きつけられる土地や地域というものがあるがそういう場所は、自分がかつていたところである可能性がある。

知人を見ていると、南米とか中央アジアとかロシアの匂いがする。案の定その辺が気になるという。

前世だけでなく先祖も関わりがあるかもしれない。

国内なら出雲だという。

私は瀬戸内と鹿児島に行った時、戻ってきたという感覚があるが、どの土地も人生でそこに暮らした経験がない。

海外にもそういう場所がある。

奇妙な既視感というか帰郷感のようなもの。

そういう場所を訪れると言うことはその人の魂にとって大きな意味がある。

心の奥底にこびりついたこだわりや思い込みのようなものを洗い流す意味合いもある。時間の狭間に横たわる、なにかを清算する。

意識の変容には欠かせない。

天皇コア論 天皇は現人神か

戦前に日本人が天皇を現人神であると考えていたのか、実際当時の天皇を巡る空気感がどのような感覚であったのかは、当時を知らない私には何とも言えない。

当時を知る人から話を聞いたとしても、それはその人の感覚であって、実際のところ自分でその空気感を肌で感じていない以上何とも言えない部分がある。

戦後占領軍が天皇の「人間宣言」を強要したが、あれは西洋人による日本文明の侮辱以外の何物でもない。

要するに西洋人は日本人の上にある。西洋文明より勝るものはないことを強制したことに他ならない。

当時の日本人はそのようには考えなかったが、本質的にそのような意味を彼らが含ませていたことは確実である。

最も日本人の神概念と西洋人の神概念には隔たりがあることからの誤解もあっただろう。

マッカーサーについては、進駐後数年を経て、日本についてどう思ったのか、意識の変容があったかどうかはまた別の話である。

さて、個人的には天皇が現人神であるという考え方に特別異論はない。

そもそも日本の神道では、人は死ぬと神になるという考え方もあるし、万物に神が宿るという考え方がある以上、ある意味誰しも人は現人神であると言える。

ただ、この考え方は人によって捉え方が様々である。

「天皇陛下は現人神であらせられます」

というと、個人崇拝のような感覚で捉える人が大半だろう。

私は天皇を想う時、天皇を一個の人格のようには捉えない。

人気俳優と同じように、一人の人格として、それを好きだとか、嫌いだとか。そういう風に天皇を考えることはない。

多くは、天皇を一個の人格として考え、良いとか、悪いとか言っているように思える。

しかし、私はこう考えている。

天皇は、日本文明の核(コア)であり、柱であり、もっと言えば一つの概念である。

歴代の天皇には様々な人格、お人柄がある。それについて、あれこれ論じるのは歴史の話をする時はするとしても、普段、天皇を想う時、人となりとか人格ということはあまり考慮しない。

確かに天皇は一個の人格ではあるが、天皇は日本人とって、むしろ人格というより概念であり、文明の核であり、柱となっている存在である。

従って存在それ自体に意義がある。

存在そのものが日本文明を明確化する。

そもそも我々一般人は、天皇と身近ではないし、そのような必要もないだろう。

人が自らの核(コア)を意識することも自覚することも難しいが、それを失えば人として存在することが不可能となる。それと同じように考える。

天皇は祭祀王であるが、人格としての支配者ではない。

古代、支配者の面を持ち合わせていたけれども。

天皇が

「朕は世界を我がものとしたいのだ。皆の者、兵を挙げよ!」

などと命令したことはないし、することもない。

明治天皇も昭和天皇も国民に一度として何か政治的な命令をしたことはない。

ユダヤの神は人に厳命するが、日本の天皇にあってそれはない。

数度の決断や、権力者の行動に怒りを露わにすることはあったとしても。

天皇の存在は日本文明のコアであり、柱であり、概念的存在である。

個人的には、天皇=現人神でも構わないが、このように考えた方が現代人にはすっきりと理解しうるのではないかと思う。

(写真:宮中三殿-西野神社 社務日誌より、戦後間もない昭和天皇の全国巡行)

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