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神人 吉田松陰
ここ数日、吉田松陰とは何かについて考えた。
信長と似ていると直感したが、よくよく考えてみれば随分違ってもいる。(前記事参照)
では何故そう感じたのか。
ふとある考えが浮かんだ。
「吉田松陰とは、神人ではないのだろうか?」
神道では神人という言葉がある。
そう思った瞬間に全てが腑に落ちた。
まず、そう考えた最大の理由が一つある。
松陰の全人生を見渡しても私的活動がほとんど見当たらない。
と言うことである。
三十年という極めて短く、かつ若年の青年が、わずか十年に満たない期間に、何故これほど多くの人を動かし、国の命運にまで、大きな影響を与えることができたのか、そして今だに多くの人を魅了し続けるのかは、大きな疑問であった。
しかし、彼を常人でない、神人であると考えた時、全てが腑に落ちたのである。
信長も神の化身のようであるが、信長とは違うタイプの神であろう。松陰は純粋である。
しかし、神人ということが、私が直感的に感じた二人の共通項であると解釈できた。
吉田松陰とは、日本の神々の神霊の化身か、神霊が宿ったのか、憑依したのかわからないが、何れにしても神人であったことは間違いないように思える。
キリスト教カトリックには列聖会議というものがあって、聖人か福者かを会議で決定するが、神道にもしそのようなものがあったとしたら、確実に聖人に列するだろう。
ジャンヌダルクは聖人である。
その意味で松陰神社があるというのは誠に理にかなったことであると思う。
日本史には時として、危急存亡の時、かくいう神人が現れる。
日本人が神々を大切に思う心を持ち続ければ、これからも「松陰」は現れるに違いないと信じる。
(写真 浦賀 松陰象山邂逅の碑、乃木神社摂社 正松神社 、東京世田谷 松陰神社境内 吉田松陰墓所)
信長と松陰は似ている
先日、明治維新から現代にいたる歴史的プロセスの起点に信長がいると書いた。
信長の天才的先見性とそれを現実化するための果敢な行動力と発想力。
松陰の才気ほとばしる先見性と過激なまでの行動指針。そしてそれを支える国への激烈なる思い。
支配者と教導者という立場の違いはあるものの、過激な革命家(あるいは革命的変革者)という意味でも、その気質においても両者には共通点がある。
この二人が、心中に秘めた「国のかたち」を理解するには百年かかるだろうと、本人たちはそう思っていたに相違ない。
先週、吉田松陰の末裔の方とお会いする機会があり、お話を聞いたり、文章を拝見するなどしているうちに、ある言葉が浮かび出た。
「命をかける。身命を賭す。命に代えても。などという言葉を簡単に言う人がいますが、まことに耐え難いのです。玉木家(松陰の生家)は、男はみな死に急ぐものばかりで、残ったものは女ばかり。後に残されたものがどれほどの思いをしたことか。考えてほしいのです。」
その言葉のすぐ後ろに、吉田松陰が影のようにぼんやりと浮かびあがる。するとその言葉の重みにずしりと刺さるものがあった。
男の影に女あり。女の影に男あり。相反するものが共に交わりながら人間社会は成り立っていく。
「死は好むべきにあらず、また悪むべきにあらず。道尽き心安んずる、すなはちこれ死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なきなり、魂存すれば亡ぶも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあればいつまでも生くべし。僕が所見にては生死は度外におきて、唯、言うべきを言うのみ。」(『松陰全集』より)
檄文である。
するとこんな謡の文句が浮かび上がる。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり 一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
信長の辞世の逸話に出るこの謡は、松陰の言葉と意味するところは少し違うものの、死生観に流れるある共通性を禁じ得ない。
このような言葉を言う人のごく身近にいる人々にとっては、我々が知るよしもない、さまざま複雑な思いがあるに相違ない。
しかし、松陰という、維新の「金字塔」が日本と、そして結果的に世界史を回天させる機動力・原動力になったことは疑うべくもない。
信長に始まり松陰に帰結する。
過激な二人の革命家(あるいは革命的変革者)は一瞬にして時代を駆け抜け、そして去った。
現代日本に至る道 ー 明治維新の原点に信長あり
現代日本に至る道筋を辿ると、織田信長が起点ではないかと思う。
信長以前と以降では国の形がかなり違うのではないか。
それ以前は権力の分散がかなり大きかったこと
権力基盤に宗教勢力が絡んでいたこと
兵農分離を進めたこと
信長は宗教を否定しなかったが政治や権力あるいは支配構造の中に入り込むことを嫌った。
一方で応仁の乱以降滞っていた伊勢神宮式年遷宮を復興させるなどした。
信長は天皇の上に自分を置いたと言われるが、この国の神々の中の一人くらいには思っていたかもしれない。
彼は中世の混沌とした権力構造に終止符を打ち、幕末維新以降、天皇を中心とした中央集権構造を生み出すに至る歴史の流れの起点にいる。
信長以降、秀吉家康によってキリスト教が禁じられることで、政治権力と宗教勢力は明確に二分される一方、結果的に天皇を日本をまとめる軸となるべく浮き立たせた。
その中継地点に水戸学があり、江戸時代の国学の興隆がある。
信長自身は、彼の死後の日本国の形がどうなるのか、それを意図してはいなかっただろう。
世界史において、古代文明の流れを軸とした文明は自壊するか他の勢力に殲滅されるなどして、近世以降地球上からほぼ姿を消していった。
唯一日本だけが古代文明からの流れを含む日本文明として残るだけでなく世界の大きな荒波を生き抜き、かつ成功を収めたのは奇跡という他ないが、その重要なファクターの一つに織田信長の存在を忘れることはできないだろう。
信長がこの国の形において、意図したものがあったとすれば、その完成形の第一段階として明治維新があったとも言えるのではないか。
(写真 建勲神社)
