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みそぎはらへ 二九十一十八 素戔嗚の匂い漂う対馬最北の地
対馬の北端は入江のように小島や岬が無数にあり、それらには鳥居があって、神域のようになっている場所が無数にある。
歩いていけない場所もある。干潮時にしか歩けない汀を歩いてようやくたどり着くようなお社や神域もある。
島大國魂神社は、目立った神社としては最北端にある神社だが、岬の先端にあり干潮時は海沿いを歩いて行けるが満潮時は道がなく辿り着けない。
自分が行った時はちょうど満潮時で近づくこともできず見ることもできなかったが、港に沿ったところに付近では一番大きな、那祖師神社がある。
ここは付近関連の三社をお祀りしているようで拝殿の額には、那祖師神社、若宮神社、島大國魂神社の三社の名前が記されている。
那祖師神社
祭神 素戔嗚命 曽尸茂梨(そしもり)
由緒書きの素戔嗚に関する記載には、
尊が出雲より、その当時同国より親しみありし韓国の東南部三韓御経営のため往復遊ばし。渡韓の要衝である対馬には尊ならびに若宮姫を祀る神社は六十八座あり、出雲の十六座より相当多いことが分かる。
若宮神社
祭神 五十猛命
素戔嗚の長男で共に韓国に渡った後、晩年は和歌山に鎮まった。紀伊國一之宮伊太祁曽神社の祭神でもある。
島大國魂神社
祭神 天ノ狭手依比賣 素戔嗚命
天ノ狭手依比賣は、古事記によれば有史以前、対馬最初の国司であり女神であるという。
対馬北端には素戔嗚に関する神社が多いようだ。今回行かなかったが戻って後調べたところ他にも以下のような神社事績もある。
岩楯神社
祭神 素盞嗚命、五十猛命、蛭子命
「往昔、素盞嗚尊が韓土より帰り玉ふ時、此の浦に御船を寄せ玉ひしと云ふ。依って後年に至り神徳を仰ぎ祀る所なり。」
みそぎはらへ 二九十一十六
対馬 和多都美神社 三ツ鳥居 豊玉姫墳墓
神殿前の湾内から五つほどの鳥居が連なり美しい光景を見せる。干潮時には厳島神社のように海上の鳥居まで足を運ぶことができる。
対馬国一之宮 海神神社も元和多都美神社という説があるがどちらが古いのか分からない。
海神神社が豊玉姫のみを主祭神とするのに対して、当神社は彦火々出見命、豊玉姫命の夫婦神を主祭神としている。
由緒によれば、豊玉姫の父神、豊玉彦がここに宮殿を営み海宮とし、地名を夫姫(おとひめ)としたのだという。
社殿背後は夫姫山といい、社殿後方に大岩があり、ここに豊玉姫の墳墓があり、さらに西の山下に豊玉彦の墳墓があるという。
彦火々出見(山幸彦)が釣針をなくして、当地にやってきておよそ三年この宮で過ごし、豊玉姫を娶ったという。
まさに神話上の故地ということになる。
神殿の脇及び神殿前の池には三ツ鳥居がある。
これは卜部氏と関係があるのか。
対馬国一之宮海神神社は伊豆山に鎮座することから卜部氏との関係が強いものと思うが、当社もその影響あるということか。
みそぎはらへ 二九十一十五 対馬 安徳天皇稜
対馬に安徳天皇生存伝説と天皇陵がある。
安徳天皇生存伝説というのはいくつかあるが最も信憑性が高いのは宇佐八幡神主家の宇佐氏家伝安徳天皇すり替えの話であろう。
これについては宇佐氏神主家が書籍を出している。
今回対馬を車で走っていたら、「安徳天皇稜」と言う立て看板が道路脇にあったので不思議に思い訪れてみた。
車が一台ようやく通れるほどの道があるものの、ほとんど人が訪れることがないであろう農道のような、林道のような山道を山の上まで上がること5ー6分。
道が行き止まりになって小さな駐車スペースが設けられていた。
そこに詳しい案内板がある。以下、
対馬の中世史は宗氏の入国に始まる。宗氏の出自は諸説あるが、ここ久根田舎の住民は古くからこの土地の字名は全て安徳天皇にちなんだものと伝えられているという。
そして村人はみな宗氏を安徳帝の直系だと信じているのだという。
説によれば、壇ノ浦合戦の際、従臣斎藤為持が帝を抱き筑紫に逃れた。筑紫の少弐資頼が鎮西守護となり密かに天皇を奉じると、帝は島津氏の女を娶り、二子をもうけられた。これが初代宗重尚、二代助國であるという。
寛元四年、宗氏が対馬を領すると筑紫吉井から安徳帝を迎え、この地に御所を設けた。建長三年(1251年)四月十五日、七十四歳で崩御という。
当山付近は、御所があったところで、陵墓は末広がりになっており、納言殿塚、重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚犬塚などの古墳があるという。
安徳天皇稜とされるところには宮内庁の案内板があり、「佐須陵墓参考地」となっており、単なる伝説の域を超えた何らかの信憑性を感じさせるものである。
