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大八洲の一つ 対馬の今
「いや〜すごく騒がしいですね。」
レンタカー屋のオヤジと話をする。
「客はほぼ韓国人でして。ここはもう日本じゃないですよ。占領される。」
冗談なのか本気混じりか。多少寂しそうではある。
「対馬と壱岐は人口ほぼ変わらないんですね。」
「以前は8万人くらいいたんですが、魚が獲れなくなって人が減ってしまって、今では3万くらいしか。」
壱岐は対馬に比べれば5分の1ほどの面積しかないが、壱岐が平坦な地形であるのに対して、対馬は非常に急峻な山々が連なり人が住めるスペースが限られている。
人のいるエリアから隣のエリアに移動するには必ず急な山道を上がってまた降りていかなければならない。
バイクなどのツーリングをする人にとっては最適な地形だ。島も大きいしゆっくり一周するなら一日くらいの大きさ。壱岐が外周170キロだから、対馬はその数倍になるだろう。
「韓国人観光客は昔から多いんですか?」
「昔から多いし戦前から住んでいる人もいた。」
観光客の8-9割は韓国からで、北端の比田勝からの船便は、私が乗船した時は、恐らく私以外2-3人しか日本人はいなかった。
比田勝のターミナルは、5-6台の観光バスが、旅行客が着くのを待っている。
釜山から比田勝に戻った時、パスポートチェックの役人に、
「東京からですか!何で来たんですか?」
「いや旅行ですよ。対馬から1時間で釜山に行けると人から聞いて行ってみようかと。こんな船便があることは知らなかった。」
「いや〜珍しい。観光ですか?この船は日本人はほとんど使わないんですよ。わずかに対馬の住民が使うくらいです。荷物拝見しても良いですか?」
入国審査で、海外でもこれだけ時間かけられたことがなかったので、多少驚いたが、ちょうどトランプが来日した日だったから。
「厳しいですね。トランプが来日したからですかね。」
「今警戒強化中なんですよ。」
「羽田も厳しいですかね〜。」
「いやここが一番厳しいと思います。東京ですか〜。ほとんど記憶にないなあ。珍しい。」
壱岐から対馬の船がついた時も、出口に警官が3人もいて客を眺めていた。国内では非常に珍しい光景である。
スウェーデンからノルウェーにバスで行った時、到着したオスロでバスを出た途端厳しいパスポートチェックが入ったがあの時を思い出した。もちろん壱岐ー対馬の場合、国内だからパスポートチェックはないのだが。
対馬で最大の街 巌原は韓国人観光客で溢れている。中心街に大きなスーパーがあるが、韓国人がまとめ買いで忙しい。
ここに来ている観光客は釜山市内にいる住民と言うよりは地方の農村から来てるような感じである。彼らは服装で違いがはっきりしている。それは釜山に行って分かったことだ。
日本と韓国との複雑な事情や現状というものをどれほど意識しているのか。恐らく大半は何も考えていないだろう。単に身近で安価な海外旅行に心弾んでいるという風である。
対馬の人には複雑だろうが、彼らがいなければ相当に寂しい島の現状が浮き彫りになる。
しかし、観光客たちはほぼ団体で行動しており、島内で観光客がいる場所は極めて限定されており、それ以外の大半の地域は、休日でも人がほぼ見当たらないほど。
壱岐で対馬の事を聞いた時、
「あそこは韓国人だらけですよ。そのうち占領されちゃうんじゃないかと心配してるんですが。」
「壱岐はどうですか?」
「壱岐はいないことはないが少ないです。」
「壱岐もたくさん来た方が儲かっていいんじゃないですか?」
「いや〜。」
複雑な心境であった。
対馬には北端の上対馬地域を中心として自衛隊の駐屯地があり、有人国境離島法も最近施行された。対馬の船のターミナルには、
「祝 有人国境離島法 施行」
という横断幕が掲げられていた。
住民は安心感を多少増しているように思われる。
みそぎはらへ 二九十一十一
日本海海戦戦勝記念碑 対馬 殿崎に天光が射す
住吉三神 宗方三神 綿津見三神 が守る国防の地
対馬の北端、釜山行き船のターミナル、比田勝港から車でさらに北端方向へ数分。
この先にある海域で日本海海戦が行われた。
天気が良ければ釜山の夜景がかなりはっきりと見えるほど、朝鮮半島に近い。
この殿崎浜に日本海軍に撃沈されたロシア船の水兵が上陸したらしい。
現地住民ははじめ驚いたが、憔悴した水兵を見ると、すぐさまこの岬にある井戸に連れて行き喉を潤してもらったという。
その時の井戸が今も残る。
この日は風が強かった。比田勝から釜山へ向かう船は海が荒れているから引き返すかもしれないとアナウンスがあったが何とか釜山へ。
福岡から対馬までの海より、対馬から朝鮮半島までの海の方が荒い。
対馬海峡は日本の絶対国防圏として今も重要な意味を持つ。
宗方三神、住吉三神、綿津見三神のご加護を祈ると、海上へ天光が射した。ほんの数分の出来事だった。
三韓征伐、白村江、元寇、朝鮮出兵、日露海戦、そして戦後引き揚げから朝鮮戦争まで。
この地は日本の激動の歴史と共にある。
日本国防の最重要地点である。
みそぎはらへ 二九十一十 壱岐 住吉神社
最古の住吉神社であるといふ
神社内に、最古住吉宮であるということが書いてある。宮司に聞けば、
「住吉神社は神功皇后三韓征伐の帰途、住吉神による戦勝に感謝して建立せられたもので、帰途上の通路で考えれば壱岐が最も初めになる。」
のであると。
「当神社は四大住吉、すなはち壱岐、長門摂津、筑前に入るが、通常は三大住吉ということで壱岐が外れることもあります。」
ということだ。理屈でいえば確かに壱岐が一番始めかもしれない。
普通住吉と言えば摂津(大阪)の住吉が最も有名なのは周知だが、長門摂津の住吉は明らかに三韓征伐の帰途上に勧請されたものであろう。
筑前は、住吉最古社と言うが、イザナギが黄泉の国より戻った後、
筑紫の日向の橘の小戸のあはぎはらに禊払給いし
時、綿津見三神と共におうまれになったのが住吉三神ということで、その場所がここ筑前の住吉神社の場所であるということになっている。
神功皇后が三韓征伐に行く際、住吉神の神がかりがあり、神託が降りたということで、住吉神社が三韓征伐以前から何処かに住吉神のお社が存在したのか、神がかりが起こり、三韓征伐後に神社を建立したのかは定かではない。
しかし、筑前の住吉神社は、神功皇后に住吉神が神がかった時点で既に神社が存在したものと考え、当社を最古としている。
壱岐 住吉神社の由緒書を見ると、
「御凱旋の為軍越神事を定め臣安倍介麿に壱岐島を賜ひ大宮司としてその子々孫々をして永く奉仕させた、異敵降伏国家安泰の神秘を行ふ軍越神事の秘法を伝えしめたまふ」
とある。さらに、
「当神社は神功皇后帰陣の際、御神祭の由緒深き古社にて即ち住吉神社の草分けとも申し奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり次いで御鎮斎あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四大住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり」
と言う。
