丹後半島から南の福知山市にかけて、元伊勢の伝承地がいくつかある。京丹後の斎宮神社に赴いたのは、昨年の6月頃と記憶しているが、その少し前に私が奇妙な霊夢を見たことが原因であった。
これについては、当時の書き込みを巻末に転載したのでご参照ください。
神社に訪れた時、正面門の構えが夢に出てきたものと全く同じであったことに驚いた。神社にしては珍しいもので、周囲が塀で囲まれ、門の屋根が独特の形をしており、これまで私が見た中では、京都市内の天皇家最大の陵所「月輪陵」に似ていた。
神社の宮司様にその話を伝えると、驚いた様子だった。夢では門の横に、細目の石柱があり「増馬大神」(巻末参照)と書いてあるのがはっきり見えた。この実在していない神名を頼りにネットで検索したところ、竹野(たかの)神社にたどり着いたのである。
竹野神社 祭神 天照大御神
斎宮神社 祭神 建豊波豆羅別命 彦坐命 竹野媛命
宮司様の話では、地元では「斎宮さん」ということが多いとのこと。また、この地が元伊勢だという説もあるとのこと。
元伊勢伝承地は、近隣に籠神社の奥宮「真名井神社」が有名だが、竹野神社の近くには、比沼麻奈為神社、また少し南方になるが、福知山市内に元伊勢内宮皇大神社などがある。
崇神天皇期に、皇居内に安置されていた御神体が笠縫邑に御遷宮され、その後、丹波国「吉佐」に遷宮されており、付近一帯にはその関連地が伝承地として伝えられている。最終的な到着地「吉佐」がどこかは諸説あるようだが、周辺の数か所を経由したものと考えられる。
斎宮とは、天照大御神にお仕えする女性の神官を意味するが、伊勢神宮の近くにも斎宮と伝えられる場所があり、京丹後の斎宮神社もこれと同等の意味があった場所であろう。
思い出したが、伊勢の斎宮趾敷地内にあった神社は竹神社という。
系譜が複雑で、話がかなりややこしくなるが、斎宮神社の祭神を詳しくみていく。分かりにくいので関係者を系図としてまとめたものを添付したのでご参照ください。
建豊波豆羅別命(たけとよはずらわけのみこと)
父 開化天皇(九代)
母 鸇比売(わしひめ) – 葛城国造葛城垂見宿禰の娘
「天孫本記」では、開化天皇段にて、建豊葉豆羅和気王は、丹波竹野別の租であると記載されている。竹野別とは竹野地域の惣領の意味だろうか。竹野という地名は京丹後市と隣接の豊岡市にあり、同じ氏族がこの2ヶ所を所領としたことが地元資料などで確認されている。
彦坐命(ひこいますのみこ、日子坐王)
父 開化天皇(九代)
母 姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) – 彦国姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
竹野媛命 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 開化天皇妃。丹波大県主由碁理の娘
籠神社宮司家の海部氏に伝わる「勘注系図」によれば、丹波大県主由碁理は天火明命七世孫・建諸隅命と同一人物であり、由碁理の別名は「竹野別」であると書かれているという。
竹野神社社伝によれば、第十一代垂仁天皇に仕えた竹野媛命が郷里に戻り天照大神を奉斎したことに始まるのがこの神社の起源であるとしている。
古事記によると、「竹野姫」は二人おり、一人が九代開化天皇の妃で、父親は丹波大県主由碁理であり、もう一人が、垂仁天皇の妃で、父親は丹波道主命。
丹波道主命 父 開化天皇皇子の彦坐王(別伝で開化天皇の別皇子で、母が丹波竹野媛である彦湯産隅命)。崇神天皇により各地に派遣された四道将軍の1人で、命は丹波に派遣された。
一人目の竹野媛命は、二人目の竹野姫から見て、義理の曾祖母又は曾祖母の関係になる。
竹野神社の社伝が正しいとすると、二人目の竹野姫が当地を訪れた際、当地に関連の深い三神、丹波竹野別の租「建豊波豆羅別命」、後述する「彦坐命」及び丹波大県主由碁理の娘である「初代」竹野媛命を祀ったものと思われる。
初代竹野媛命の皇子(あるいは、二人目の竹野姫の祖父)である「彦湯産隅命」が祀られていないのは、当地域に関連が薄かったためと思われる。(母と共に戻らず大和地域に残ったのか)
今一人の祭神である彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)だが、開化天皇の皇子であり、十代崇神天皇時代に、丹波にいた丹波青葉山の賊・陸耳御笠、土蜘蛛らの賊徒を討伐するため、天皇に命ぜられ討伐軍を指揮した。この戦いは、後期古墳時代、日本海沿岸で最大級の内戦であったという。
この時、彦坐王に従軍したのが、二人目の竹野姫の父であり、彦坐王の子(又は腹違いで一人目の竹野媛の子彦湯産隅命の子である)丹波道主命となる。
ここまで見てみると、九代開化天皇から十一代垂仁天皇の時代まで、天皇家と「丹波」が非常に深い関係にあることが分かる。
「陸耳御笠の乱」の終息で「丹波王国」は大和政権に概ね平定されたものと推測される。それ以前は天皇家に妃を送るなどして、政略結婚による連携状態にあったのであろう。
さて十代崇神天皇時代に、笠縫邑から当地へ遷宮された天照の御神体であるが、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継いだ、倭姫命が遷宮を取り仕切った。倭姫命は、斎宮の初代とも言われ、姫が御神体の八咫鏡を順次奉斎した場所を「元伊勢」と称する。
倭姫命の出自を見ていく。
父 垂仁天皇(十一代)
母 日葉酢媛命 垂仁天皇の2番目の皇后。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が薨じた後、その遺志により、丹波国から妹たちとともに後宮に迎えられ皇后となった。
驚くべきことに、二人目の竹野姫は、倭姫命から見て叔母(伯母)、ということになる。
ここで俄然、斎宮神社の存在感が増してくる。
倭姫命と共に御遷幸の御神体が丹波に到着した際、故郷に戻っていた二人目の竹野姫と倭姫命はこの地でしばらくの間共に暮らしていたとするならば、その場所が現在斎宮神社のある場所あるいはその周辺ではなかったか。
こうなると、元伊勢の候補地として、この近域の重要性は非常に高いものになってくるのではないか。斎宮神社の社名と初代斎宮倭姫命との関連性はあるのかどうか。
斎宮神社の向かってすぐ右側には、日本海地域最大級の前方後円墳「神明山古墳」がある。訪れた際、宮司様に古墳を案内していただいた。被葬者は不明だが、神社の祭神のいずれかである可能性が高い。
古墳の上を二人で歩いていた時、私がふと、
「古代には古墳の上に神社があったという説もありますね」
と話したところ、以前は古墳の上に二つの社があって、その祭りが古墳上で毎年行われていたという。二つの社が古墳上にあったとすると被葬者は二人いるのかどうか。
古墳の上からは、日本海が一望できる。見ると神社の長い参道が海岸まで延びているのが見えた。昔はこの参道を出雲から奉納される馬が駆ける神事が行われていたのだという。
「馬」と聞いて、夢で見た「増馬大神」という言葉を思い出した。
尚、当神社の宮司家は、第三十一代用明天皇の第三皇子当麻皇子(麻呂子親王)が当地に赴いた際、随行した子孫で59代目だという。
以上
下記は昨年5月25日付の書き込みの転載。「増馬大神」について。それからそれに関する過去の書き込みのリンクです。
https://tamafuri.jp/2021/05/26/nihonbunmei/395/
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増馬大神
肩を酷く痛めて今日は静養している。一昨日までは激痛が数分毎に襲い腕が取れそうだった。
肩を痛めた理由は多少あったが、個人的に、何か霊的なことの関わりの匂いがしたのでここ数日ずっと簡単な祝詞を唱え続けたところ患部の核のような部分がはっきりわかったので「鎮めたまへ」と唱えると口から軽く「息」のようなものが出て以降、鎮静化に向かっている。
自分でもこんなことがあるのかと驚きもしたが、こういうことはあるものだという確信のようなものも芽生えた。
静養中の夢で仙台の話か何かだったが、突然
「マスマオオカミです」
という声と共に小さいがしっかりとした黒門が閉まっており、横に「増馬大神」と書かれた石柱が見えた。
調べたが神社どころか地名もないのでどうかと思ったが、増馬という人名があるらしく、サイトにこの名前の由来地を案内するサイトが画像一覧にあったので、開いてみると、京都府京丹後市らしい。
京丹後市 神社 で検索したら筆頭に竹野神社という神社が出てきた。どこかで聞いたことがあると思って自分の過去記事を検索したら下記の記事。
ここに書かれている神社で唯一行ってないのが竹野神社。斎宮と神島八代神社は数年前に行っている。次回行ってみなければならない神社。籠神社も行きたい。
下記は以前の竹野神社に関する書き込みのリンク。2019年3月末のもの。
https://tamafuri.jp/2019/03/30/nihonbunmei/3406/





