知人がカイロ宣言についてどう思うか、と聞いてきた。
第二次大戦終結の二年程前。1943年11月22日に、米英中の3カ国首脳が戦後の日本の取扱についての方針を定めた会議後に宣言された。欧州戦線の終結が見え始めたこの時点で、連合軍は日本の敗戦を意識し始めたのであろう。「カイロ宣言」について、これまであまり意識してこなかったが、
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1943年11月22日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席の蒋介石によってカイロ会談が行われ、12月1日に発表された声明が「カイロ宣言」と称される。
この声明は後日、連合国の対日基本方針となった。主要な内容は以下の通りである。
1米英中の対日戦争継続表明
2連合国はそれ自身の領土拡張のために日本と戦っているのではない
3連合国は日本国が無条件降伏に同意するまで断固たる軍事的圧力をかけることを決意している
4日本は1914年の第一次世界大戦により占領した太平洋の全島を失う
5日本が中国領土から奪った領土(例として満洲、台湾、澎湖諸島)を中華民国へ返還する
6朝鮮は自由かつ独立する
7日本は暴力および領土的野心により獲得した全領土から追放される(米国公文書館にあるカイロ議事録の323~324頁に、ルーズベルトは、蒋介石に対して「琉球諸島全部を中華民国に渡したい」と申し入れるが、蒋介石は拒否したので、沖縄県の帰属は日本へ残すことになったとある。)
ここに示された日本の領土に関する取り決めは、1945年8月に発されるポツダム宣言に受け継がれることになった。
この会談に蒋介石を出席させたのはルーズベルトであり、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中国を米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の返還や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせるためと言われている
対戦中、親英米派である蒋介石が英米からの支援が少ないことに不満を持っており、日本に寝返るのではないかと噂が絶えなかったが、支援がふんだんに貰えると聞いて夫人同伴でカイロに来た。そして日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束し、蒋介石が日本と停戦する事を禁じた。
呂秀蓮副総統も「1943年のカイロ会議は当時のルーズベルト大統領が中国と日本が単独講和をし、蒋介石・元総統が講和を安易に受け入れるのを避け、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還させるためのものであった。」と述べている。
このような政策を通じて蒋介石を指導者とする国民政府の支配する中国を戦後のアジアにおける安定勢力とするというアメリカの構想の実現に基礎を与えようとした。カイロ会談に蒋介石の出席にはルーズベルトとは正反対にチャーチルが反対していた。
この会談後、中国は国際社会における声望を一定の位置に高める事となり、チャーチルの回顧録によると、カイロ会談は蒋介石もしくは宋美齢にとっては権力の絶頂だったと言われている。ルーズベルトは日本に対する差別意識を露骨にする一方、中国に対しては過剰な期待をかけていた。(以上wiki)
(しかし、国民党軍は日本軍に対しては終始劣勢であり、ルーズベルトの思惑は外れた、とある)
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かなり長い引用になったが、内容はかなり興味深い。世界における政治的支配欲と領土的野心の総本山のような米英から、「暴力および領土的野心により獲得した領土」などと「宣言」されるなど、呆れて開いた口も塞がらない気持になるが、これが国際社会における「政治」というものであり、戦争を行い、負けることの意味であろう。
戦後の日本国内の論調がいかに、「連合国軍」の思惑通りに進められたかがよく分かる内容でもある。しかも米英を敵とすべき、日本の左寄りの勢力によってであるというのも皮肉な話である。もちろん当時の左翼は、国としての日本を解体し、ソ連、中国などと政治的に一体化(最終的に共産主義による世界統一=ボーダレス社会の構築)することを願っていたという意味での思惑の一致があったのであろうけれど。
また、蒋介石が日本との講和を模索していた事実などを考えると、もし日本が米英戦に突入せず、対中戦のみに戦線を限定し、蒋介石と和解できたなら、日本と国民党軍が連合して毛沢東達を駆逐していた可能性は高く、満州、朝鮮、台湾などへの権益を何らかの形で維持し続けることができたかもしれない。また、戦後のアジア全体として見た場合、日本一国が突出した状況から、日本を中心とした、より広範な意味での「アジア圏」として西洋社会に対しての発言力を発揮できた可能性もある。
その場合、世界における、日本の政治的影響力は今の数倍あるいは、数十倍はあったかもしれない。しかし、そのかわり、日本国内では、朝鮮人や中国人によるテロ活動などがしばしば起こるなど、今よりも治安は悪化していたであろう。
どんなにヘタレでも、人まかせでも、「平和の歌」を歌い続けるべきか。リスクも危険も承知の上で、自立した生き方を目指すのか。一国の文化文明を維持するという行為は、いずれにしても命がけのことなのである。
徳川時代最大の外様大名金沢藩主前田利常は、お取りつぶしの危険が常に伴う、外様大名としての自らの地位を守るべく、鼻毛をのばして愚か者を装い、幕府からの警戒を避けようとしたという。戦後の日本は昭和の中頃までは政治家にもそのような「気概」があった。しかし、最近になり、この国の指導者が「真の鼻毛大名」になってしまわないよう、常に気をつけていかなくてはならない時代になっている。
いずれにしても、満州、朝鮮、台湾への権益についてを全く度外視したとしても、第二次世界大戦で日本が失ったものの大きさは、我々現代の日本人が考えているよりもはるかに大きく、とはいえ戦後日本人が新たに得たものの価値の大きさも充分に認識すべきであるということは、現代に生きる日本人としてよくよく理解しておいたほうが良さそうである。
もし、
上記想定のような状況になっていたとしたら、日本人と、朝鮮人、中国人との関係は、今よりもはるかに悪化していたであろうと、現代の我々は誰しも考えるであろう。
しかし、私の想定はむしろ逆である。もちろん、軋轢は今以上に大きな部分もあると思う。しかし一方で今よりもはるかに円滑な部分も多いと想定される。
現代の日本人は、戦前の日本人の置かれた立ち位置や当時の日本人の雰囲気というものが理解できない。「戦前」は完全に封印された状況にある。現代の日本人にとって「戦前」とは、何か黒々とした「悪」の匂いしか感じない人が多いのではないか。戦前と戦後は日本人にとって完全に断絶した状況になっているように思う。不幸な状況と言える。
では、今現在、そのような状況を再び望むかと言えば、完全に否である。
歴史には「流れ」がある。時代の風潮というものがある。その流れと風潮に逆らう行為は破滅以外の何物でもない。
昨日のようなことを書くと、「極右」「軍国主義」「侵略主義」とか思う人々がいるが、笑止である。私は「歴史」を正直に語っているだけである。「感情」と「真実」を混同すべきではない。どれほどさまざまな感情が蠢(うごめ)いていたとしても、真実は真実として冷静に論議されるべきであろう。
歴史は部分部分で切り取ると、「悪」とか「善」に見なされるが、総体的に俯瞰すると、「悪」も「善」もないように思われてくる。権力者は、「歴史」を細かく切り取って、自分達に都合の良いように「利用」する。それに誤魔化されてはいけない。歴史を見る場合、そういう視点が必要である。
時代は移り変わる。その時代の人間が持つ「心象風景」に依存しながら歴史は積み重ねられてゆくものだ。

