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肉体を超えた意識感情世界に人が直接関わるということの意味

霊的体質という人がいる。しばしば、ある種の美形の女性などは霊的体質であることがある。

そういう人は霊的世界に関わる仕事をするのが良いと思いたくもなるが、そうとも言えない。

恨みを抱きやすい人、何かを根に持つタイプの人がそういうことに関わると悪魔使いのようになる可能性が高い。

霊的な世界というものは、通常の数倍以上にネガティブな感情に影響されやすい世界でもある。霊的体質の人がそういう世界に関われば当然、さらにその度合いが増すことになるだろう。

そのような負の感情世界に影響を受けやすい体質である以上、そのような世界にはむしろ関わらないほうがよいということになる。

相当に純粋さを保ちうる人でもなかなか困難な世界だ。

肉体を超えた世界というのは、要するに感情や意識だけで構成された世界だから。感情や意識に制限の幅がない。

肉体を伴っていれば、人間は肉体を保つために感情を抑制したり、妥協したりしなければならない。肉体がなければそれらは必要なくなる。だからプラスにもマイナスにも無限に増幅可能ということだ。

霊的な世界というのはそういう世界である。

当然ながらプラスの世界は神の世界なんだろうけれども。

人間が「正」「聖」の世界に直結するのはなかなか難しい。

俗に修行とか何とかそういう鍛錬の世界があるけれども。

人が神と直接関わる、接するためには、それなりに相当な意識感情の抑制力や方向付けが必要であるということだ。

「神」と関わる、というと特定の宗教的先入観があるかもしれないが、別の言い方を試みるならば、人間よりもより卓越した意識体とでも言うべきか。

ただし、我々凡夫は、ひたすらそこに思いを向けるだけで良いのである。
霊的体質でない人は難しく考える必要はない。

キリストの愛の正体を検証する

人はなにがしか背負って生きているものだ。多くは家族を背負っている。

世に言う成功者というのは、それ以上の多くを背負って生きている人のことだ。

何を背負っているのか?

それは大きくは人の思いの蓄積のようなものだ。

そういうものが特定の人間に集中することがある。

そのわかりやすいものの究極の一人がキリストであろう。

今では全ての人類の思いを背負い彼自らが一人犠牲となり神に召されたんだということになっている。

しかし本来はユダヤ人の思いを彼は背負ったということだろう。

ユダヤ人たちは彼を救世主だと信じたが、キリストの存在は彼らが期待したものとは違った。

ユダヤ人たちは、ローマ人のくびきからユダヤの民を解放してくれる「物理的救世主」であることを期待したが、彼はそういう人物ではなかった。

それを知った時、ユダヤの民は彼を「売った」のであった。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

彼は死の直前にそう呟いた。

彼は神には見捨てられてはいなかっただろうが、結局彼自身が全てを背負ったはずのユダヤ人たちからは見捨てられたのは皮肉な話である。

彼を見捨てなかったのは、彼を葬ったはずのローマ人たちであった。

ローマ人の手によって彼は「人類の思いを全て背負い神に召されし犠牲者」ということにされた。

人類の皮肉か。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

確かに彼はある意味見捨てられたのである。

彼が思う神とは、ユダヤの神であったはずだからだ。

それはしかし、

結局ユダヤの神ではなかったのかもしもしれない。

捨てる神あれば拾う神あり

神に請われて多くを背負いし者

人の思いは生死に関わらない。思いに生き死には関係ないのである。

そんな厄介なものは背負わないが楽に決まっている。

その通りだ。多くを背負わされたものほどそう思うに違いない。

人の欲望を背負うことほど面倒で無意味なものはないだろう。

他人の欲望というものは誰のためにもならない下らないものだ。

しかし多くを背負う者は生まれながらに背負いし者だろう。宿命的に背負っている。

だから受け止めていくしかない。

逃げるとひどいことになる。

そういう思いを受け止めて生きて行くことを、キリストは「愛」と呼んだのである。

キリストの愛とはそういうことだ。

私はキリスト教信者ではないがイエスキリストの歴史というものを見て行くとこういうことになる。

そういうところはみていかないといけないと思っている。

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