「我は高倉天皇である」の声と、それほど高貴ではないように思えた女性の登場した霊夢。東山麓高倉天皇陵発見。何故あのような夢を見せられたのか。幾度も考えた。もちろん答えはない。

天皇陵発見の一~二ヶ月後くらいであっただろうか。ある知り合いの女性から連絡があった。厳島神社へ一緒に行ってくれないか、という。私は全く気が進まなかった。しかし、どうしても来て欲しいという。女性は会社を経営していた。その頃多少仕事が行き詰っていたようであった。所縁の厳島神社へ行き、御祈願してもらいに行くのだという。

「あなたお一人で行かれてはどうですか?」

私は、無愛想に答えたが、

「毛利さんは、厳島神社と縁が深い人だから、来て欲しい。交通費は出すから」

と引かない。渋々行くことにした。

本殿内に入り、その知人の女性と並んで御祈祷の後、しばらく神社周辺を歩いた。もう帰ろうか、というところで、目の前に宝物殿があった。

「毛利さん。あれ見て行こう。」

と知人が言う。私は全く興味がなかった。しかし、どうしても、とまた引かない。渋々拝観することにした。中に入りふらふら歩き、適当に置かれているものを見ていた。そこにあったのである。ふと気付くと目の前にショーケースが置かれてあった。そこには二つの扇が並んで置かれていたのである。その時二つの扇は藤色に見えた。(実際は違うようであるが)

「毛利○○所要の扇」そして、もうひとつが、「伝高倉天皇所要の扇」

であった。またもや高倉天皇であった。毛利○○が誰であったかは記憶にない。しかし、陵墓発見からほどない内に不思議なシンクロが再び起こった。自分がどんな「毛利」なのか。いまだに不明である。しかし、自分の人生の中でこのような不思議な事や人の出会いが幾度かあった。そういうことが繰り返されると、やはり何か関係あるのだろうかと思えてくる。この時もまたそうであった。渋々行くことになった厳島神社と宝物殿。

厳島神社の歴史を見ると、その歴史を大きく変貌させたのは、平家全盛の時代と、毛利氏がこの地域一帯を領した時代である。自分にとって、あの夢に何の意味があるのか分からないが、厳島神社は大切にしたほうが良いと思えた。

厳島神社参拝から、数年後。すでにネットが普及し、さまざまなことがその場で調べられる時代になっていた。あの夢で見たあの女性の顔が時々目に浮かんだ。がっしりと目が合い、激しい波動の交流があったあの女性とは誰なのか。

小督、という女性がいる。

小督(こごう、保元2年(1157年) – 没年不詳) 以下wikiより

平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。

類稀な美貌の箏の名手であったと伝えられる。始めは冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の建礼門院徳子の父であった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に坊門院範子内親王(高倉天皇第2皇女)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。

『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられている。(wikiより)

高倉帝は死の直前、小督のいる清閑寺に自らを葬って欲しいと遺言し、現在の後清閑寺陵に埋葬された。清閑寺は、陵墓を尾根伝いに歩けば今もひっそりとある。境内には小督の宝筺院塔が残る。また、「要石」があり、石のある高台から京都の街を眺望できる。高倉帝の死後、小督はこの寺で帝を思い、その菩提を弔ったとされる。またこの寺の境内には「郭公亭」という茶室があり、幕末期、西郷隆盛が清水寺成就院住職月照上人と勤王の謀議を重ねたという。

この情報をネットで発見した後、清閑寺に行った。この女性があの夢で出てきた女性と関係があるのか、もちろん分からない。

その後、一度だけこれに関わる夢を再び見た。しかし、その時書いたものが散逸した。今それを詳しく書くことはできない。しかし初めに見たほど明瞭感のある夢ではなかった。

(写真 google検索にて―伝高倉天皇所用扇、以下はwikiより 「大西郷月照王政復古謀議舊趾」碑、要石)

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