渋谷の金王八幡宮は、どういう訳か縁遠い。20年以上前のまだ学生時代、道玄坂上に住んでいたことがあり、その頃一度だけ参拝したことがあったが、体調を崩した。以来数十年、ようやく再びこの地に辿り着いた。相変わらず足は重かったのだが。理由は不明。
この神社は、渋谷区港区内では最も重要な神社の一つであることが分かった。鎌倉期この地を治めた渋谷氏の管轄は、武蔵谷盛庄七郷で、現在でいう、渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井の地にあたる。これら地域の総鎮守が金王八幡宮であった。宮は渋谷氏の居城に重なる場所に鎮座している。
現在の国学院大学付近に常盤松(常盤御前手植えの松。常盤御前は義朝の愛人で義経の母)の伝承地があることを思えば、渋谷城域は恐らく渋谷三丁目及び東一丁目全域を超えるものであったろう。社域は時代が下り相当に狭くなったものと思われた。
渋谷氏は、もと桓武平氏で、秩父別当平武基を先祖に持つ。子と孫の武綱、重家は、後三年の役で源義家方として大功を挙げこの地を賜った。重家の代に、禁裏の賊を退治し、堀川天皇より渋谷の姓を賜った。これが「渋谷」という地名の由来である。
重家は子宝に恵まれなかったため、夫婦で当八幡宮に祈願を続けていたところ、ある日、金剛夜叉明王が胎内に宿る霊夢を見て、男子を授かった。そこで、子の名前を金王丸と名付けたという。金王八幡宮とは、この子の名に因んでいる。
金王丸はその後、源義朝に従い保元の乱で大功を挙げ勇名を馳せるも、平治の乱で、義朝が敗れ、尾張国野間の長田氏の謀反により殺害されると、渋谷の地で出家し、義朝の菩提を弔った。
時は下り、源頼朝は、当八幡で平家追悼の祈願をし挙兵。壇ノ浦に平家を滅ぼすと、返す刀で、弟義経追討を、金王丸(土佐坊昌俊)らに命じる。
金王丸は、断ることもできず、わずか百騎あまりの手勢を率い、義経の館に討ち入り、散った。
その後、源頼朝は、奥州藤原泰衡退治凱陣の折、この地を訪れ、金王丸御影堂を参詣。金王丸の名を後世に残すべしと厳命したと言うことである。
前回20年以上前に参拝した際には、金王丸御影堂の存在には気付かなかった。
「これであったか」
という思いが過った。もちろん理由もわからぬままに。
しかし、本日参拝した代々木八幡は、頼朝の子を弔う場所であり、金王八幡宮は、頼朝の父を弔う場所であった。それがどちらも渋谷区にあり、明治神宮の南側をちょうど挟むような場所に位置している。
なんとも奇遇である。

