目白駅から数分のところ。巨木が何本もあり、およそ100平米ほどの敷地の屋敷が二つある。しかし、屋敷自体はそんなに豪邸というほどでもないので、屋敷と巨木とのアンバランスが非常に気になり、聞いてみたところ。
ここは、徳川黎明会と言って、徳川家の敷地を30弱の敷地に区割りして、屋敷を賃貸ししているんですよ。ということであった。今日改めて近くを歩いてみたところ、その隣に大きな鉄製の門の奥に豪華が屋敷がある。これが徳川黎明会の事務所のようである。
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徳川黎明会
公益財団法人 徳川黎明会(ざいだんほうじん・とくがわれいめいかい)は、尾張徳川家所蔵の美術品などの管理・一般への公開などを目的としている。現在の会長は尾張徳川家第22代当主の徳川義崇。1931年(昭和6年)、尾張徳川家第19代当主の徳川義親によって設立された。
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何とも不思議な話である。先日仕事で名古屋へ行ったが、会社の所在地が徳川町であった。ここには徳川園、徳川美術館などがある。ここは、尾張藩主二代目の徳川光友の屋敷跡らしい。
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徳川美術館
尾張家の第19代当主・徳川義親は1931年、財団法人尾張徳川黎明会を設立した(その後財団法人徳川黎明会と改称)。徳川美術館は、同財団により1935年、尾張徳川家名古屋別邸跡の現在地に開館した。
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不思議なご縁というべきか。どちらも設立は同一人物によるものであった。
目白通りをはさんで反対側には、先日書いた御留山があり、この付近一帯は明治期に近衛家の所有となった。正式な住所は下落合であるが、今でも別称で、近衛町と呼ばれる一角がある。ここには、戦前まで近衛篤麿という人物の屋敷があった。現在でも石碑が残っている。
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近衛篤麿
近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。1863年(文久3年)旧暦6月26日、左大臣・近衛忠房と島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれた[1]。ただし父忠房が1873年(明治6年)に家督を継がないまま35歳の若さで病没したために、祖父近衛忠煕の養子という形で家督を相続した(文献によって、忠煕六男と記しているものもある)。
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石碑には以下のように記載されている。
――――前略―――時の内閣からしばしば入閣を懇請されたが、固辞し、常に野にあって国政の大局的指導に当たった。日清戦争前後における西欧列強の清国侵略に慷慨し、中国の保全と日中の協力を提唱。明治三一年(1898)東亜同文会を組織し、次いで上海に東亜同文書院、東京に東京同文書院を設立、日中両国学生の教育に尽くした。ロシアの中国への南下を憂慮し、国民同盟会、対露同志会を結成し、国論の喚起に努めた。しかし、不幸にして難病に罹り、日露開戦直前に逝去。42歳―――――
目白界隈は、以前いた麻布周辺に比べて重厚な面持ちのする場所である。恐らく六本木周辺の開発が進み、土地の切り売りなどが進んで様相が変わってしまったためと思われる。六本木周辺は毛利家の藩邸がいくつもあったが、目白周辺は尾張藩など徳川家の藩邸があったようである。
(写真:徳川黎明会表門、前景、表札、上落合旧近衛町の近衛篤麿邸跡石碑、同解説版)

