人を見る時、私はその人の言っている言葉とか、理屈はあまり重視しない。

例えば、ある人がマルクス主義が良い、と言っているとする。

では、その人がマルクス主義が良いと思い、それに関する情報を色々集めて、自分の考えを構築するのだが、その「選択して、集めて、構築している」大元の部分は何でできているのか。

私はそこに関心がある。

本人はマルクス主義が良いと思っているのだが、実はそう思わせている元のエリアには、幕末期、維新政府と敵対し、明治政府を憎んだ佐幕方の侍の意思が横たわっていたりする。だから、反政府であり、反権力なのだ。

本人はそのことを自覚していない場合が多い。時にそういうことを本人に話すと逆上する場合もある。だから、「正解」なんだろうが、本人は知りたくない、という場合もある。しかし、こうなると問題の解決はなかなか難しくなる。

表層的な部分と、それを動かし形作っている元の部分は一見関連性がない場合もある。表層と実相が逆転している場合もある。

こういうものの見方を多くの人が持つようになると、世の中の複雑にもつれた糸がほどけてゆくと、私は思っている。だからそういう視点をみんなが持つべきであろうと。

そうすると、感情的な諍いや揉め事はかなりの程度減ってゆくだろう。根っこがみえないまま、さまざまな表層的な問題に関わっても、枝葉を見ているだけで、後から後から次々と、手を変え品を変えて問題が起こってくる。

世間一般はこういう表層的に起こることに関して、ああだこうだと表面的に騒いでいるばかりである。これでは、いつまでたっても問題は解決しないだけでなく、時間が経つに連れて、大元の部分に「堅い甲羅のようなもの」が何十にも重なってゆき、いよいよ問題の本質が見えなくなり、複雑化するばかりであろう。

このような、人間の本質を見る視点が、多くの人に備わってゆけば、世の中はもっとシンプルで、分かりやすく、明るいものへと変化するだろう。

ところで、自分の「元」は何なのか。

人は、自分を外から見ることができないので、自分のことはよく分からないものだ。私自身のこともそれほど正確には分からない。

しかし、これまで霊感の強い数人の人から言われたことがある。

「お前は何か非常に古い霊魂が関わっているな」

そうかもしれない。だから現代の感覚にはあまりそぐわないように思われる。

自分の本質をもう少し探って見ることができればと思っている。

(写真 伊勢 月読宮 伊勢神宮HPより)

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