考えること(思考)とは、物理的な「脳みそ」を使うということであり、感じることは、場合によっては全身全霊を動員する必要がある。
思考は、自分の都合でいくらでも積み上げが可能だ。思考は小手先の技術に過ぎない。
理屈もストーリーも個人の都合でいくらでも勝手に創作が可能である。
「思考」とは結果屁理屈、虚構、綺麗事の中に自己満足しがちである。
「砂糖は甘い。」
人間はそう感じる。時にその感覚を駆使して砂糖の産地や含まれる成分を見分けることもできる。
「感じる」力には虚構はあり得ない。屁理屈も綺麗事とも無関係な世界だ。砂糖が塩よりも塩辛いことはあり得ない。
しかし、思考ならば、感動的な美しいストーリーを伴って、
「砂糖は塩よりも塩辛いのである」
と語ることは「いくらでも」可能だ。これが現代社会と現代人の有り様、価値意識や世相や常識世界を象徴している。
西洋的な思考中心の現代社会は、
例えるならば、
「砂糖は塩よりも塩辛い」
という、美しく理路整然としたストーリーに耽溺しつつ、それを人間の理知的な判断力の成果であると自己満足している社会だ。
一方で、「思考」というストーリーにどっぷりと浸かっている人達の意見や判断力は極めて単一的である。
彼らは、どんな切り口にも、Aという側面からBという答しか出さない。
「感じる力」からすれば、同様の局面でも、Bであったり、CであったりDであったりすることは当たり前だが、「思考」にとって、それは支離滅裂であり、「非科学的態度」であると軽蔑される。
しかし、「感じる力」はただ事実か真実を捉えているだけのことだ。
分かりやすく言うと、「平和」「平等」「人権」とか、(あるいは、その逆の「戦争」「差別」「格差」などでも同様なのだが)、このような思考の産物に価値判断を委ねるものの答えは、どのような切り口、局面でも常に同じであり、聞かずとも答えが見える。
だからそれ以上注目する必要も価値もないのだが、世間は、いつも同じ「くだり」を繰り返し確認したがる。
「思考」は四六時中「納得」したがるものだからだ。
一方、「感じる力」は事実と真実を、あるいは、そのありかを伝えるだけであり、それがどれほど不条理であろうが非科学的であろうが、常識はずれであろうが関係ない。
現代社会の混乱や歪みはこのことと大いに関係している。
例えば、「宗教」というものの混乱や価値の低下もこれと深い関係がある。宗教もまた屁理屈、綺麗事、ストーリーに成り下がっている。
「感じる力」が低下することは真実や事実から乖離することだからだ。
宗教だけではない。政治も経済も芸術も、それ以外のすべての分野も、そして科学それ自体すら同様だ。
「思考」が真実や現実を的確に示すと考えることは、「幻想」であり、「都合」に過ぎない。
現代人は「感じる力」に注目する必要がある。それがまた、日本人が本来得意とする分野でもある。
日本文明の根幹である、神道は「感じる力」を重視するものだからである。
戦後世代が社会の大半を占めるに至り、この国が停滞している現状もまた、日本人が本来の能力を失いかけていることの証左であるとも言えるが、今この時、再びその力を、これまで以上に明確に意識する絶好の機会であるとも言える。
(写真:富士山本宮浅間大社 湧玉池)

