リベラリストが人道主義に基づいて、不平等や人種差別の問題に絡めて、移民抑制の問題や保護主義を批判している。
人間は、自分に余裕のある時は大盤振舞できるものだ。連日パーティーを開いて誰彼構わず人を招き、高級なワインや世界の珍味を皆に振る舞う。それこそが成功者としてのステータスであり、喜びともなる。
しかしそれは永遠には続かない。それでもなお大盤振舞を続ける者は愚か者ということになる。
かつて西洋や西洋社会、あるいは西洋文明が世界を席巻していた頃。彼等にも大盤振舞の余裕があった。
開かれた社会。境界線のない社会。
それこそが、彼等の威信の現れであり、揺るぎない自信の表明でもあった。
時は流れた。ミイラ取りがミイラになったのである。
自ら築いた社会や価値意識が崩壊の危機に晒されている時、その現実に目を向けずに、既存の「理想主義」にしがみつき、「綺麗ごと」だけが「表面社会」に許されている状況が続いた時。そのゆがみとひずみの先にあるのは、極端な自己中心主義の勃興であり、簡易な歴史的表現でいえば、ファシズムの台頭である。
結果、西洋文明の担い手達は、自らが築いた価値観によって、逆に自らの価値観も文明も生活圏までもが崩壊されつつある今の現状を、強烈なジレンマの中で見守っているのだと言える。
そして、戦後主に米国が中心となって築いた、経済至上主義と物量大量主義。
生産量や売上高が高いほど、人口が多いほど、GDPやGNPが大きければ大きいほど、強国であり、一流国であるという価値観。
この価値観の逆襲を受けているのが現代社会であり、日本を含む先進諸国の現状であろう。
このままでは、人口が多く、生産量と消費の大きな国家や民族が世界を席巻するだろう。
ボーダーレス社会も地球的平等主義や多数決主義にいたるまで、煎じ詰めれば、人口が巨大な国や民族の価値観に世界が塗り替えられることだということに、そして、それが彼等西洋人でもなく、キリスト教文明でもないと分かった時、彼らはパニックに陥ったのである。日本もまた少なからず例外ではない。
まさにミイラ取りがミイラになった瞬間だ。
そういう価値観を終わらせることができなければ、世界は特定の民族や国家の「決して良質ではない」「唯物主義的な」価値観に押しつぶされるかもしれない。もちろん、日本も例外ではない。他の国家も民族も同様である。
あるいは、自分達が築いた文明や生活規範、生活圏を失うことになるかもしれない。今世界がその恐怖に晒されている。
それは決して「日本的な」譲り合いの社会ではなく、一方的に失う社会になる可能性が極めて高いからである。
それでもなお、人々は、「境界線のない」「平等な社会」という「究極の理想」の実現を、本気で目指そうとするのだろうか。
そもそもそれが「理想社会」だと言えるのか。
唯物主義者を除いて、それはあり得ないだろう。
今、我々は、資本主義(経済至上主義、数量主義、物量主義)とマルクス主義(唯物主義、民主主義)の逆襲に晒されているのだと言える。
写真:アダムスミス

