自分が住んでいる場所とそこから受ける恩恵。

この国の成り立ちとそのさまざまな特性。

世界における、現代から過去にいたる、歴史と習俗との比較考察。

こういったものを考えてゆくと、日本の場合、それが神道だとか天皇だとかに行きつく。

そこに住み、そこで暮らすことの恩恵を受けるものにとって、これを守ってゆこうと決意することは私の中では極めて自然なことである。

一方でそういった世間でいうところの「右寄り」という概念の中に、特に世界的な表現でいうところの「極右」とか「人種差別」とかいうものが混濁して混じりあっており、あたかも、「右寄り」=人種差別主義者というレッテル張りがなされる傾向にある。

国家とか、民族とか国民という概念を、「文明」というくくりで見ることが全くできない人がいる。

こういう人々が自分の国や国家に深くコミットしようとする場合、それが、「よそ者はじき」。場合によっては人種差別という形で強められるのである。

私の感覚で言うならば、この種の人々は、「右寄り」というよりも一種の唯物主義の亜流のひとつにしか見えない。

私自身がこの国の特質を守ろうと強く感じているのは、より「内面的」なものであり、誤解を恐れずにいうならば、より「宗教的」「霊的」な側面からである。

こういう概念を現代人は避けて通るか、もともとそのような教育を受けていないことから、そのような視点を持てないまま暮らしている。

そういう人々には、その人間の「霊的」な軸足が欠如しているか、あるいは、非常に脆弱になる。魂がさまよっている状態である。

政治家も、さまざま、この国のことについて語るとき、うまく説明することができず、言われるがままとなり、挙句「キレル」。

西洋では、「極右」と言えば、人種差別主義者という概念になる。

本来、日本には、このような意味での「極右」というのは存在しない。

日本に極右というものがあるとしたら、それは全く別の意味になる。

西洋人の言う、「極右」というのはある種、物質主義的な概念から生れ出たものである。

我々日本人には馴染みのない言葉だ。

その意味で、戦後よりも、戦前ははるかに「右寄り」の時期があったが、それでも今よりは、人種差別主義という概念は希薄であった。

何せ、そのために西洋人に牙をむき、その戦いで敗れたのが、他ならぬ日本人であったことを忘れてはならない。

(写真:北一輝 wiki)

https://ja.wikipedia.org/wiki/北一輝

Exit mobile version