己が魂を鎮魂する

西洋は理性主義を重視して自らの言動の高きを主張する手段としている。よって我々の意思と文明は高貴であるのだと。

しかし、人間は結論的に感情で動いている。

理性とは、人が感情的に揺らいでいない時のみに適用される精神状態に過ぎず、理性的世界は「感情的人間」としての精神世界構造の一部に含まれている。

感情が理性を凌駕することはあっても理性が感情を凌駕することはありえない。

よって二者は対立的存在にあらず。

人が最終的な選択や決断をする最大の起因は感情による。

「理性的」を重視する西洋文明の歴史を見ると、その大半は実に感情的な爆発の連続である。

これをどう説明するのか?

人が理性的に判断しえた、と考えられる状態はそれを、その問題を、その時の状態が、その人にとって感情的に是認されたものであるから可能であったに過ぎない。

理性的、は感情が振れていないときに起こるが、人の感情の「振れ」る起点が何処にあるかには個人差がある。

-100度がポイントの者もいれば100度がポイントの者もある。

したがって-100度で理性的になれる者と100度でなれるもの、0度でなれる者の判断や選択は自ずと異なる。

あるいは「あ」という状態で理性的になれる者もいるが「い」でなければ理性的になれない者がいるというわけである。

では我々は何を最善とするのか?

自らの魂が鎮まり、かつ拡がりを持った状態であることが理想的であろう。

まつろわぬ神を鎮魂するが如し

己がまつろわぬ魂を鎮魂すべしと

日頃より己が魂を鎮魂しなければならない。

それは己が関わる先霊や自然霊や神霊を求め、それの御霊の安らぎと増益を求めるということでもある。

我々の魂は個なる魂ではなくそれら関わる魂魄の集合点の一部あるいは一角であるからに他ならない。

写真:出羽羽黒山

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