信仰者を増やすことは精神病患者を増やすことだ

と、ニーチェは言った。

彼はキリスト教に関する持論を述べた「アンチキリスト」と言う書籍の中でそのようなことを言っているが、キリスト教に限らず宗教というものにはそういう側面がある。

かく言うニーチェ自身も晩年は精神を病んだのであるから皮肉と言えば皮肉な話であるが、彼もまたキリスト教文明の病と闘い、その病の中に倒れたということか?

それはさておき、

人の信仰が深まるにつれ「真実」や「真理」などどうでもよくなる。信じているもの以外見たくもないからである。それに刃向かうものには容赦ない。人がこれ以上冷酷になれる瞬間はないだろう。

それは歴史が証明している。

どうしてこのようなことになるのか。

その多くは、彼らの信仰を支える「教え」がそうさせるのである。

だから私は神道に教えがないことを極めて評価しているし、ポスト「宗教」としての神道の役割について声を荒げたいということである。

現代人のようにある程度成熟した魂に、強要されるべき共通の教えは必要ない。

「教え」に変わるものは、それぞれの価値観や日々の活動や人生やあるいは神々と向き合う中で見出して行けばいい。分かち合える中でそれを共有するのもいいだろう。

しかし、神道は昔からそうだ。

だから神道は宗教ではないと言われる。そうだろうと思う。ある意味「超」宗教の概念だと言えるだろう。

キリストにせよブッダにせよ、彼が見たもの、訴えたかったもの、知らせたいものはあったし、それはそれぞれに人類にとって尊いものだ。

しかし、彼らの没後、それらを信仰するものが増え、教団が成立し、そこで飯を食わねばならない人が多数出てくると、あるいは自らの欲のため、布教のため、人を離さないために口から出まかせを言う。

頭の良い僧侶が現れて御託を並べ始める。

するとそれらが時間と共に「崇高」で「深淵」なる「真理」へと変貌するのだ。

そんなものにがんじがらめに縛られて日々を送れば頭がおかしくなってくるものもいるだろう。

そんなことをキリストもブッダも望んではいまい。

これが「教え」の正体と現実というものだ。

そうは言うものの、そういうものの中には、命がけで智慧をしぼりだして得た、有益な理論や思想、概念、言葉もあることは付け加えておきたい。

それらは学べば良いのである。

日本文明も良きは学び、己が胎中に取り込んできたのであるから。

素直にそうすれば良いのである。

ただここで「教え」というものの弊害を強調しておきたいと思ったのである。

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