自分の言葉でしゃべれと言う。

最近ネットなどを見ていると自分の言葉でしゃべっておらず、人から聞いた話をただそのまま語っているだけなのをしばしば目にすることがある。

しかし、自分の言葉はどのようにして紡ぎだされるのか。

これに関連した話で、岡潔は、「無差別智」(『春宵十話』)という短いコラムの中でこのように書いている。

「覚醒時の意識には必ず通っており、理性の地金となっている智力」のことで「情緒の中心を通り、地軸をも貫いている」ものが人にはあるというが、それを純粋直観(仏教用語では、無差別智と語っている)という。

それは、「自明のことを自明と見る力」のことであり、「これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」に過ぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし」「独自の見解など全く持てないことになる」(以上カッコ内本文より抜粋)

純粋直観(無差別智)に対する言葉として、岡潔は、「分別智」と言う言葉を使っている。辞書的には、「 自他の区別を前提として行われる、煩悩をもつ人間の思考。」となっているが、これは要するに人の環境、記憶に基づいた主として他者への分別心や常識価値判断のことをいうのだろう。

自分の言葉を使うということは、知性の問題に考えるが、自我が肥大した現代人に純粋直観を得ることは難しくなっているだろう。

独自性というのは、不思議なことに自我を可能な限り減殺したところから得られる純粋直観によるのである。

自我と記憶というのは結び付きやすく、両者が強いほど人からオリジナリティーを奪っていく。

人からオリジナリティーが奪われると、ストレスや葛藤ばかりが意識の中に蓄積しがちとなり、人から「幸福感」のようなものが奪われてゆく。自己の存在意義なども希薄化するだろう。

俗に「知性的」と言われる人から幸福そうな感じを得ることが難しいと思われることがしばしば見受けられるのは、そういう意味あいがあるのだろうか。

あるいは、人権とか平等とか反戦とかそういうことを声高に叫んでいる人の中で幸福そうな人を見ることが少ないのは逆説的な現象であるが、そういうことなのだろう。

人からオリジナリティーが消えれば消えるほど、個々の独自性は奪われるが、それは自我の強さに比例する=純粋直観が減殺されるということになる。

知性とは何かという問題について考えさせられる一文である。不思議な逆説のような意外性もあるだろう。

岡潔は戦後教育は日本人が古来から得意としてきた「純粋直観」に基づいた生活感、人生観を奪う教育であり、それに対し危機感を感じ、警鐘を鳴らす文章を書いている。

Exit mobile version