「我思うゆえに我あり」と「古池や蛙飛び込む水の音」との決定的な違いが生み出す世界の違いとは

この二つの言葉は、ユダヤ・キリスト教文明からくる思考と、日本文明からくるものの見方の違いを決定的に表現している。

旧約聖書 出エジプト記において、「わたしは、あってある者」あるいは、『「わたしは有る」という方』という表現で神について表す一節は有名である。

また、新約聖書においては、このように語られる。

「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。言葉は神と共にあった。万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった」(ヨハネの福音書より)

一神教文明、すなはちユダヤ・キリスト教文明がいかに「主観的」な宗教であるかがこれらの言葉から理解できるだろう。

「あってある者」である唯一神が、人に対して言葉を発する。それは極めて「一方向的」で「絶対的」なものだ。これが全てを決する。

万物もこれ以外によらないものはない。神の言葉は、神の被造物である人に「直下」し、この関係性は神と人という「孤」と「孤」の絶対的な関係性の中にある。

「われ思うゆえに我あり」はデカルトの言葉だが、これは聖書における神の有り様を人の在り方にあてはめただけである。

神が「主観的」存在だから、人もまた「主観的」存在にならざるをえない。

一方、「古池や蛙飛び込む水の音」は芭蕉のあまりにも有名な俳句だが、この句は聖書の世界観とは真逆の世界観が読み取れる。

この句における主体は「我」でもなければ「蛙」でもなければ「水の音」でもない。

この句を発する人は、あたかも、自分の体から魂が抜けだして、上方から、その風景や世界を漠然と見下ろしているかのごとくに察せられる。

主体も客体もない。いやむしろ「我」はどこかに消し去られてすらいる。

抜け出した魂が世界を俯瞰して眺めており、それを全体として表現する感覚。何者でもない「我」が見下ろす世界。

ここにおいて、人間も自然も動物もが「並列的」に存在しており、その全体の調和の中に「現世」があるのだと認識している。

「我」もその中の一片に過ぎない。

恐らくユダヤ・キリスト教文明の影響を強く受けている人の多くはこの句の意味が理解できないのではないか。

「この句の何がいいのか。ただ、風景を客観的に描写しているだけではないか」

そう思うだろう。

私が、ユダヤ・キリスト教文明を

「主観的」

と言い、日本文明を

「俯瞰的」

というのはこのような意味における。

この違いから生み出される文明の違いは決定的なものだ。

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