情報を戦場における砲弾の着地点に関する分析という側面から見てみる。

砲弾が着弾した後、その着弾地点の土壌の様相、例えば地面がえぐられた角度とか深さとかを正確に記録して、これに基づいて、この砲弾がどの地点から発射されたものか、それはどのような兵器から射出されたものかを詳細に分析するという学問がある。

これは非常に重要なアプローチだ。それを詳しく分析することで、敵側の兵器の能力の詳細を知ることもできるだろうし、それに対してより有利な戦術的な方策を体系化できるだろう。

これは情報の非常に「科学的」なアプローチ。

それに対してこれとは全く違う情報分析の手法が存在する。

ある兵士がこう考えた。

その数秒前に、言葉には表現できない「不愉快な」感覚に襲われたがゆえに、彼は自分のいた場所からほんの数メートル体をずらした。

その直後、とてつもなく大きな砲弾がもといた地点に着弾し、周囲数メートルを粉砕した。

後者は「非科学的」である。

その意味で「科学的視点から物事の真実を判断する」ことこそが真に人間的で理性的で知的な判断であると信ずる人にとっては、後者のような「状況」は偶然的な動物的な、ある意味人間の中では極めて劣ったレベルの人が信奉する「妄信」であろうと。

しかし、ここではっきり言えることがある。

前者の極めて「知性的」な判断のみを信奉する人間が戦場に投げ出されれば、恐らく初めの1日目で戦死するだろう。

情報には二種類ある。

全ての結果が出た後でそれに対して詳細な検討を加えるべき情報。

その瞬間瞬間に何が最も適切で重要な情報であるかを「本能的」「感覚的」「経験的」「総合的」に判断する情報。

後者はある意味より高度だ。

大東亜戦争に敗北する以前の日本人は後者の能力(その瞬間瞬間に何が最も重要であるか)が非常に高度だった。(にも関わらずなぜ日本人はあの戦争で敗北したのだろうか?という問題は残しつつ)

恐らく駆け引きの稚拙さと、その当時の欧米人の力量のほどを理解できなかったということがあるだろう。世界史という弱肉強食の野蛮な世界の価値観をいまだ日本人は理解できていない。

しかしそれを克服する上において、かつて日本人が持っていた優れた能力を、今再び己の魂の中によみがえらせる必要がある。

それは「庶民」ほど有能であり「エリート」と俗に言われる人ほど困難なことになるだろう。

(写真 毛利元就)

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