「資本論」は、国際金融資本家が彼らのイニシアティブを最大化するためのツールとして、その目的のために大衆を扇動するための手段として、マルクスに依頼して開発されたものだが、あの複雑な理論(理屈)は、知的で高学歴な秀才達をそのイデオロギーに没頭させるためのものだという説がある。本来「共産党宣言」だけで充分なんだと。恐らく間違いないだろう。

現代社会を見ていて思うのは、「知的で」「高学歴」「ハイエンド」な人種ほどメインストリームの見た目格調高い、知的な、権威ある、言い回しや論調に「乗せられ」「嵌まり」「のめり込み」やすいように思えるし、結果、強く洗脳されていることを多く見うける。こういうのが一番始末が悪い。

日本の職人さんのような人たちには、難しい理屈をごちゃごちゃ考えず、理屈抜きで物事の本質を瞬間的に捉える能力のある人々がいる。「上手く言えないんだけど」。でもそれが正しい、本質をついている、ということはよくある。これらは日本社会の良心とか正しい方向性とか優れた技術などを支えてきた重要なファクターだ。

自分もファーストインプレッション、直観的な知見を最も重視している。できるだけ「意図的に」それを変えないようにしている。

「なんか変だな」「おかしいなあ」何かに接した時に感じるある種の「歪み」「違和感」「異和感」の認識。これが重要だ。

最初に直感的に感じたが、いろいろな知識や情報が付与されると次第に初めの感覚が薄れて、やがて考え方が変わっていくことが多いが、結局、あるいは最終的に判断を誤る。あるいは「なんでも在り」みたいになってうやむやになって真実に到達できない。ということは非常に多い。世の中を見ていてもそう感じることが多い。

理屈や思想にあまり溺れないほうが良い。

理屈や思想というのは特定の人間が考えたもの、場合によっては意図的な視点を持って作られたものだ。極めて側面的、局面的、部分的だと考えて接するべきものだろう。

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