クリスマスだから、ことさらキリスト教の看板である「愛」を語ろうというわけではないのだが。
自分は人と関わることが嫌だった。人と関わるとその奥底にある深くネガティブな感情が、まず初めに、私の魂を貫く。時によってとてつもなくネガティブな激しいエネルギーである。こういう感性(感覚)が分からない人には笑い話かもしれないが、それを受けとめるということは、それ以降、長い期間、そういう感情と付き合わされるはめになる。それはとてつもない忍耐力とエネルギーが必要になる。それが私には面倒だった。
そんなことに自分の人生の多くの時間を割くことは嫌だ、と。それによって自分の人生になにがしかの益をもたらすのであればそれも甘んじて受けることはできる。しかし、それに何か意味があるのだろうか。恐らく無駄に時間だけが流れ去るだろうと。
今年の夏頃から体調が異常に悪化した。それ以前、数年前からその異常はうすうす感じてはいた。結局、私にはガンという診断がくだり、10月に手術を行い、とりあえず完治ということになったが、初期のガンというわけではなく、今後私の人生がどこまで維持されるのかは不透明な情勢である。
この過程で、何の恐怖も不安もなかったが、人生がいつ終わるかもしれないという状況は身近に痛感したし、それは今後も続くだろう。
人と関わることを20代以降基本的に忌避してきた自分だが、ここにきてそれと反対の感覚に囚われている。
とりあえず人と繋がろうと。関わる人を良く見ていこうと。
それがどんな人かは分からないが、自分の隣に居合わせた人というのは、もしかしたら自分にとって何か「意味」のある人物かもしれない。たとえ居酒屋で隣り合わせた人であったとしても。そんな時でも必ず声をかけて話をしてみる。
今までそういう繋がりの可能性は無数にあったかもしれないが、それを完全に無視してきた。その「無視」は、もしかしたら人生を無限に無駄に過ごしてきたのかもしれない。
もちろん、今だからこそ、自分の成長によってそれを受け止められるだけの自分になっているからかもしれない。
とはいえ、これまでの「自分の過去」は、これまでの人生の、あるいは自分の無数の魂の変遷の、大きな問題に関わる、重要なヒントがそこかしこに落ちていたかもしれない。にもかかわらず、それを無視し続けてきたのではないか。
愛とは何か。
「自分にとって不都合な真実を受け止めること」かもしれない。
それを受け止めるための無条件の「器」の確立。それが愛。であろうか。
残された人生を可能な限り多くの人と関わり、その一つ一つを見つめてみたいと思うようになった。
これが、私の来年以降のテーマになるのかもしれない。

