社会の歪みを引き起こす世代間のコンプレックスを超越するために必要なこととは?

少し前の記述で、自分は父親との関係性や父から聞いていた戦前の日本について感じたこと知ったこと思ったことを伝えたくてこの日記を書き始めたと書いた。

戦前戦中を生きた世代の経験を我々戦後の「平和」な世代は決して越えることができないという意識はある種コンプレックスに近いものだろう。

彼ら「戦前戦中」の世代は、死線を彷徨い、身命を賭して自らの命を燃やす瞬間が、たとえそれが不条理で強制的で不幸せな局面であったとしても、我々戦後世代のように、「命」や「死線」などと特に考えるでもなくフラフラと欲望の赴くままに、時を浪費しているよりも遥かに濃密なものを自らの内側に含んでいるように感じられる。

もちろん戦争など望むべくもないが、「身命を賭す」瞬間がその人にあるかないかは人生に大きな差を生むことになるだろう。「守るべきもの」のあるなしも同様にして。戦後世代の多くにはそれらが「欠落」した、あるいはさせられたのである。

気づけば自分も50を超えた。

「この人生の轍(わだち)には一体何が残ったのだろうか。」

恐らく戦後世代で同じような思いを抱いた者は多かっただろう。

特に1960-70年代に学生運動などを行なった世代は顕著かもしれない。彼らの親はほぼ100%戦前戦中派であり戦争経験者だ。

親と違って自分たちは意味もなく平和な時間を浪費しているように感じ、その反作用で学生運動のようなものに熱中して自分の青春を誤魔化したものが多かっただろう。親の世代へのコンプレックスの裏返しである。

だから戦後日本の「左翼」というのは、ごく一部を除き、思想的に見るとどこか歪(いびつ)で首尾一貫したイデオロギーを感じない。彼らの言動には、情緒的な、意識の揺れ動くさま、ばかりが目に止まる。

左翼のようで左翼とも言えずそれを「サヨク」と揶揄するものもいたが、もっと言えばそれすらも怪しい。実は大した思想的理由で活動していたわけでもない者も多かっただろう。

あの世代の多くは実は彼らの親の世代の「反作用」を生きたに過ぎない。

日本人のように情緒性の強い民族性を持つ場合、特にその傾向が強くなるのだろう。

この世の中が理念で動いているわけではなく、多くの場合不条理に事が進む理由にはこんな問題が横たわっている側面がある。

だから我々は、時として歩みを止めて、その不条理の背後に潜む「真実」に目を向けて、ヘンテコな方向に社会が進んだ場合にはそれを明らかにして「意図的」「意識的」に修正する局面も必要になってくる。そして、人間を不条理に動かす魂の乱れを「鎮魂」するという行為も必要になってくる。

日本に古代から連綿と続く、先霊達や神々の意識、「一筋の真直なる光明」と繋がることで、それはかなりの部分解消されていくだろう。

それは我々一人一人に大いなる気づきとインスピレーションやあるいは「霊感」を与える力の源泉になる。

さらに、この国と国土の奥底に横たわる「神々の子孫達の確執」というものを併せ乗り越えていくためにも必要な手段とは、古代から現代までの先人の御霊を改めて認識して、それに気持ちを向ける、意識を捧げる、あるいは「鎮魂」の祈りや意識を捧げるという、一人一人の小さな心の有り様の積み重ねが最も重要なことであり、それがこの国に新たな「奇跡」を呼び起こすきっかけに繋がるものと確信する。

その動きはいよいよ活発化しつつある。

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