大東亜戦争中命懸けで幾多の戦中を生きた父だったが

戦艦金剛という船の副砲の指揮官をした後、いくつかの船を転勤し、特攻兵器の震洋の部隊長になったが、終戦間際は小笠原諸島への補給線の護衛艦の指揮をしたという話を聞いた。

いつだったか一番好きな船は何?

と聞いた時「松」という駆逐艦と同型の船に乗っていた時が一番良かったかなと。艦長か副艦長だったらしい。松なのか同型のそれ以外の船かははっきりしない。

マニラ湾が空襲に遭い、その船が攻撃されて沈没した。マニラ湾で船が沈没したのだ。

父親は沈没する船からマニラ湾を泳いで陸上まで辿り着いたがその時長刀を無くしたという。

船はゆっくり沈没したので沈む船が波間に消えるとそのままゆっくり海に出て岸壁まで泳いだという。

フィリピンから命からがら海軍の飛行艇の最終便に近い飛行機で本土へ戻ったという。

歴史を見ればこの時マッカーサーがフィリピンを奪還してきた時だったんだろう。海軍の勢力はこれ以降ほぼ壊滅状態であった。

その後震洋の隊長になり、小笠原諸島方面の補給路の護衛艦の指揮官になったと思われる。

そんな生き方をした後の戦後の彼の人生の精神状態がどんなものだったかについていままであまり実感がなかった。

しかし今日ふと感じたのだ。

恐らく虚しい気持ちがしばしば魂に満ちることがあったのではなかったか。そういう気持ちを「えいっ」という気持ちで生きのびたのではなかったか。

彼の死後、若い頃のメモ書きのようなものを偶然目にした。そんなことが書かれてあったのを思い出した。

彼の戦後の人生を貫いた「虚しさ」のようなものを私自身がここ数日初めて理解したような気分に陥った。

今日突然はっとしたのだ。父親への供養のように。

父親が生きた戦後の激しい魂の浮沈の様をこの歳になって初めて理解できたような気分に陥った。

そして、戦後の高度成長期を父親と同じ時代を生きた人達が作ったのだろうと。

写真 松型駆逐艦

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