LGBTの問題でもそうだ。人や社会が一般的に言っていることを自分のことのように信じてオウムのように繰り返すだけ。
自分でものごとの在り様を見つめ観察する意識が必要だ。
自分で考えるということ。
社会や自然や世の中の動きや現象を観察して、ものの道理を自分自身で考える習慣を持つ。
オウムのように「誰か」が言ったことを繰り返すだけで無意味な「確信」を抱くのは止めるべきだろう。
「平等」
という非常に薄っぺらく単調な単語をつきつめると、物理的な男女平等になり、それが男女の境界線を越えたレベルまで延長されるべきだという「直線定規」みたいな思考の延長線上にあるのがLGBT(Q)だろう。
このような足し算的な思考は中学生でもできる。だから反論できない人が多いんだろうが、、、。
しかしこの思想は本来、ユダヤ・キリスト教的な「神の下における平等」に由来する。
「物理的平等」という本来の理念を「逸脱」した思想は「自然」への挑戦であり「宇宙」の道理への冒涜につながる。
LGBTなどという「物理的な人間の平等」を強く主張したければ、男性でも子供が産めるように肉体改造できるような「手術」を「科学的」に実現すべきだろう。
もちろん私はそんなことにはなんの興味もないが、もし自然に対して挑戦状を叩きつけたければそこまでして初めて「LGBT」なるものの正当性を主張できるはずである。
この意味が理解できないでLGBTなどともっともらしく叫んでいるのは申訳ないが「アホ」としか言いようがない。
自分の頭で何も考えてない。
女性が子供を産むと言う行為は男性には未来永劫理解できない深淵な世界であり、男性は生物学的に見れば「最後の一滴」に関与するだけの存在に過ぎない。
女性こそ物質世界の王者であり、男性がそれに代わることなど決してできない。
以前、もし自分が子供を自分の体で産むことができるならば、と想定したことがある。
恐らく、男性は、その場合、自分の子供を「自分」の所有物だと女性以上に強く思うだろう。恐ろしいまでの所有欲を男性は持つはずである。
しかし、女性の場合、子供に対して「無償の愛情」を持っても、男性ほどの激しい所有欲はないのではないか?
男なら必ず思うはずである。
「お前はオレの一部なんだから。どんなことがあってもこうあるべきだ!お前はオレなんだから。疑うべくもない!」
などと小難しい理念を病的に子どもに押し付ける羽目に陥るような気がする。そうじゃなくても男はそういうところがあるんだから、、、、。
宇宙の原理はよくできたもので、女性と男性の役割を絶妙に「線引き」したように思う。
しかし、それに対抗したい人がいるならば、対抗すれば良い。何事も自由だ。
キリスト教の教えでは、神ははじめに人を造り、その次に人のためにそれ以外のものを造ったとある。
西洋人の自然に対する「傲慢さ」というのは、「自然」は神が「人」のために造ったもの、という教えに由来するものだろう。
しかし、日本人はそのように考えない。
我々は自然の一部であり、人は自然という全体の中の部分に過ぎない。そう考える。自然に溶け込み、川の流れの一部のように生きていくのが理想だと考える民族である。
「自然体」「あるがまま」の生き方。
なかなかできるものではないが。
我々日本人は彼ら(一神教文明)とは違う。彼らの「異常」な理念や思想を取り入れる必要はない。

