一神教文明が興隆する以前に隆盛していたいくつかの多神教文明(アフリカ、ユーラシア、南北アメリカ起源の)が滅亡したのは生贄の儀式が宗教的な本質や真理を追究する試みにおいて整合性の齟齬があったからだと言える。
簡単に言えば、その用法には深刻な誤りがあった。
ここで言う生贄とは人間とそれ以外の哺乳動物をそれに利用することを言う。自らの意思で自らを犠牲にする行為は除かれる。
一神教の興隆により多神教が駆逐されるプロセスにおいて大多数の宗教的生贄の儀式も同時並行的に衰亡した。
しかし、一神教それ自体の問題はそれが拡大するに従って露呈してゆく。その矛盾を近年では「多様性」という言葉で覆い隠そうとしているが、もともと排他的な一神教論理の上にいくら多様性を唱えたところで、大きな一つの鍋の中にいろいろなものを入れ込んでぐるぐるかき混ぜればやがて一つのシチューになるだろうという深謀遠慮が横たわっている。
当然それには限界がある。
料理はシチューだけではない。カレーもあれば豚汁もトムヤンクンもある。それらを作るには別の鍋を必要とするだろう。しかし、彼らにはもともと一つの鍋しかない。しかも彼らは別の鍋を持つものの鍋を破壊しようとすらする。だから鍋の奪いあいになり、結果、殺しあうか自分以外の別のものの殲滅という選択肢以外なくなるのである。
それが一神教の宿命だ。
しかし、それもそろそろ役目を終えようとしている。
次の文明の隆起において先文明の滅亡に伴って消えた生贄に該当するものとして「教え(主として戒律的な意味合いのもの)」と言うものがあるだろう。
教えというのは、ああしてはいけない、こうしてはいけない、などの項目リストを神から与えられ、それを理屈抜きで守る掟のことだ。そうしなければ地獄に行き、そのようにすれば天国へ行ける(神によって引き上げられる。神の国に入ることができるなど)とされる。
信心というのは、一度それが脳に定着すると一般的な意味での知性や理性を軽々と凌駕する。東大脳的な優秀な人間がマルクス主義にかぶれると、それが時代とともにどれほど無意味なものであると証明されても、自らの脳に着床した思想に固執して疑わず、それに基づいた理屈を振り回し、自分は優れているのだと疑わない人間を時折見かけるが、信心に耽溺する人間はそれと同等の精神状態と見て良い。
教え(主として戒律的なもの)とは、神なるものから、道理に不足した人類に対して一時的に与えられた「緊急措置」のようなものだ。それ自体が真理ではない。仏教用語で、方便とか随喜説法と言う言葉があるがそれに近い。完全に嘘だという場合もあるだろう。嘘も方便(使いよう)と言う言葉の通りである。
子供に対して「夜遅くまで遊んでいると鬼がやってきてお前を食ってしまうぞ」と脅すのと同じだ。それは嘘だが必要な嘘だ。
しかし、この二千年の間の人類史を見て、主要な宗教の運用によって人間の内的存在価値が向上されたと言う実績は極めて限定的なものに留まり、近年においてはむしろ有害ですらあるように見える。
その運用が全く意味がなかったわけではないが、極めて限定的であり、今やその効力は薄れつつある。鬼が食うなんて、そんなことありゃしないじゃないかと人間が気づき始めたという側面もあるだろう。
生贄も特定の教えも存在せず、多神教であり古代から現代に至るまで継続している体系的に整備された文明が世界に一つだけある。
日本の神道である。
これだけが唯一残った理由の一つに、生贄の儀式がないことは決して偶然ではない。(追記すれば偶像もない。)
西洋文明の興隆に対して日本文明はそれに伍したが、今一つの理由として、日本社会に奴隷制度が歴史的に存在しないことは重要な意味を持つ。
一部のマルクス史観学者などが古代史のある一面や記述を引っ張り出し日本にも奴隷はいたというが、その後の歴史においても職制による身分の非流動性あるいは禁忌はあっても西洋文明におけるような明らかな奴隷制度は日本史上に存在しない。それに伴う大きな悲劇的記述が皆無だということもそれを証明している。
ちなみに、ギリシャ・ローマ時代の市民と奴隷の人口比はおよそ6:4とされ、アメリカ合衆国において奴隷制が廃止される以前においてはおよそ8:2であったとされている。
ほんの100年ほど前まで彼らは奴隷制度を運用していたということを忘れてはならないだろう。
今現在大きな問題となっている、移民問題及びそれに関連する極端な格差社会というのは奴隷制度の変形版あるいは現代の新奴隷制度的ファクターの社会的内在とみて良いだろう。彼らは表面上、決してそのようなことは言わないがそれは糊塗あるいは一時的誤魔化しではないのかと感じている。人はそう簡単には変わらないからだ。
しかし、教えの宗教と奴隷制はやがて衰亡するだろう。
次の文明の興隆においては、それらの要素が文明的なレベルで見直される段階へ向かう。
その時、「日本的なるもの」「神道的なるもの」が必要とされる価値体系を作る基準あるいは前提として唯一人類に残されることになったではないかと人間社会が気づくのはそれほど遠い未来ではない。
それは同時に人間が次の段階に入ろうとする意思の表れともなる。

