米国の失策 日本を徹底的に叩いたのは米国自身の国運までを縮めた
第二次世界大戦において米国が参戦したのは、英国を助けたいという理由以外、際立った起因はないように思える。日本との開戦は、そのための出汁にされただけであり、日本にとっては、いわばとばっちりに過ぎないのだとも言える。
日本を徹底的に叩きのめして、アジアにおける日本の権益を一つ残らず奪い去った米国の政策は、明らかに米国自身のアジア政策の失敗を意味している。そのことを少しみていく。
それは、大きく見れば、結果的に米国自身の国運を縮めるものですらあった。
米国は戦前から、中国における利権を獲得するため、国民党に肩入れし、日本を牽制していた。またそれ以前においては、日露戦時における日本への戦費調達に協力し、戦後、満州における利権を得ようと画策したことは前回の文章で記載した。
第二次大戦による日本敗北の結果、満州、朝鮮半島における影響力が奪い去られたことで、米国は満州における利権を得ることに最終的に失敗したのみならず、中国の共産化を促進させ、結果的に戦後の朝鮮戦争を誘発させるに至った。
中国が共産化していなければ、東南アジアにおける共産化も鈍化したに違いない。
米国は最終的に、満州の利権と中国における影響力を得ることに失敗したばかりでなく、不要な戦争(朝鮮戦争)までする羽目に陥った。
さらに、ベトナムに共産勢力が入らなければベトナム戦争もまた起こらなかっただろう。ベトナムの共産化は中国の共産化に密接であることは言うまでもない。
ベトナム戦争によって、米国は明らかに自らの国運をすり減らした。これ以降、米国の国運は下り坂へ向かうことになる。ベトナム戦争がなければアメリカ合衆国としての国運は現実のものよりは息の長いのもになっていただろう。
そして、ベトナムのみならず、カンボジアの共産化による、目を覆うばかりの惨劇も起こらなかったかもしれない。
戦後、日本は復興して大いに栄えたが、アジア全般として見た場合、日本のアジアにおける影響力の喪失によって、結果的に、アジア圏としてみた場合の世界におけるアジアの立ち位置はワンランク低いものになったことは確実である。
満州国が存続していれば、米国や欧州の自由主義経済圏は早い段階で、アジアにおける経済的発展による利益を享受できたかもしれない。
朝鮮半島の分断はほぼ確実に免れ、近い将来、名目的にであれ、独立し満州地域と合わせてアジア圏の中心地域の一角として繁栄した可能性もある。
一方、中国においても、満州国が防共の障壁となれば、共産化は免れたかもしれない。
国民党は米国からの支援を得ていたが、日本とも共闘する方向に舵を切りなおせば、共産軍はそれほど脅威にはならなかっただろう。
すると、中国もまた満州、朝鮮半島地域と共に、早い段階で自由主義世界の一員として発展した可能性がある。
台湾に敗残の国民党がなだれ込み、多くの台湾人が犠牲になるような事件もまた起こらなかったことは言うまでもない。
こうして見ると、米国における当時のアジア政策は、単に日本に勝利したというだけで、それ以外に特筆すべき成果はほとんどないのである。
英国を救わんがために、第二次世界大戦への参戦の口実として、日本を開戦へと誘発させたルーズベルト政権及びその後の米国政権のアジア政策は結果的に「敗北」したに等しい。そもそもアジアをどうするかという政策自体希薄だったのかもしれないが。
100年後、米国史を彼ら自らが振り返ってみた時、日本との開戦までは良かったものの、その後、日本のアジアにおける影響力をことごとく奪い去った自らの政策、戦争方針は間違いであったと見るようになるのではないかと私は思うにいたった。
日本とはほどほどのところで停戦し、早い段階で日本と協調して、アジア政策を進めることができていれば、アジア史というものもまた随分変わった景色になっていたであろう。
もちろん、そうなった場合、他の戦争が起こったかもしれないし、日本人が、奢ることなく、冷静に世界戦略を遂行できたかどうかはまた別の視点が必要になるだろう。
日本にとってどちらが良かったかまでは誰にも分からないが、あれほど国土を徹底的に破壊され、多くの国民を亡くし、自らの文化文明を破壊されたことを考慮すれば、あれで良かったんだと喜べるものでないことだけは間違いのない事実である。
(写真:フランクリン・D・ルーズベルト)
戦前日本の対米関係の三大失策
日本の戦前期における対米関係には大きくみると三つの大きな失策があり、この三件に関して失策がなければ、対米戦争の回避、あるいは損害を最小限に抑えられたと考えられる。
まず一つは、日露戦争の戦費が不足していた際、アメリカの鉄道王ハリマンと実業家シフらが、日本に対して巨額融資を行ったが、ハリマンらは戦後の見返りを期待してのものだった。
日露戦後、ハリマンは南満州鉄道事業に加わらせて欲しいと提案してくる。ハリマンからすれば自分が金を貸したから日本が勝てたんだ。そのくらいの権利を主張できるはずと考えていただろう。
当時の首相桂太郎他、主要な政治家の大半はこの提案を基本的に受け入れる方向で意見が一致していたが、外相小村寿太郎がただ一人この提案に激怒して、なかば強引に反故にしてしまう。
日本人が血を流して得た権益の半分を無傷の米国が手にするなど日本国民が許さないだろうということや、いくつかの問題点があったようだ。しかし、完全に拒否するのはまずかった。
ハリマンは激怒し、これがきっかけとなり、米国の対日感情は決定的に悪化する。これ以降、米国が日本を仮想敵国とするようになる。
二つ目は、先日記載した、河豚計画の頓挫である。河豚計画が実現し、ユダヤ人の移住が行われ、アメリカ資本を満州に引き入れることができていれば、日米関係はかなりの程度回復し、米国は対日戦を急ぐような真似を起こさなかったであろう。起こさなかったというより、起こせなかったと考えた方が良いかもしれない。
しかし、この計画も日独伊三国同盟が深化していくに従い、頓挫していく。これは松岡洋右をはじめ、当時の政治家や軍人たちの国際情勢判断が性急過ぎたことが原因であろう。松岡洋右は戦後悪人呼ばわりされているが、彼の判断は、当時の国際情勢に照らせば、かなり深みのあるものだった。しかし、ナチスドイツに対する見方に慎重さが欠けていた。
彼は、共産主義を牽制し、当時世界の最大覇者アングロサクソンをも牽制することで、日本の存在感を示す、あるいは自らの地位の安定化を図るという図式であったはずである。ウルトラCを狙いすぎたのかもしれない。
そして最後は、日米戦突入が決定した後のこと。当時、海軍軍令部も陸軍参謀本部も、日米戦に関して一定の計画を持っていた。海戦に関してはできるだけ日本近海まで米国艦隊をひきつけてこれを迎え撃つ、という日本海海戦型の戦術であった。しかし、山本五十六がただ一人この基本作戦に猛反対し、無理やり真珠湾攻撃に切り替えさせた。
確かに戦術面だけ見れば、真珠湾攻撃は世界戦史上のエポックメイキングな闘いであり、華々しい戦果であったには違いない。しかし、当時8割以上の米国民が戦争突入には反対であったものを、日本に対して激昂し、徹底抗戦の意志を固めさせてしまうという、戦略上の大失策である。(もちろんそれが当時の米国大統領ルーズベルトにとっては願ったり叶ったりであったことは近年の研究で明らかになってきている)
日本海海戦は戦術的にも戦略的にも成功したが、真珠湾はそうではない。
ゆっくり宣戦布告して、日本近海で米国艦隊を引き寄せて、迎え撃っていたら、日本側の損害もある程度出ただろうが、当時の軍事情勢からして、日本の勝利はほぼ間違いなかっただろう。そこで米国内の厭戦気分をさそって優位な戦争終結に持っていくことは充分可能だった。
そもそも短期決戦というのが日本の基本戦略であって、長期戦なら米国には絶対勝てないというのは、山本五十六にしたところで当時の軍人達の一般常識だったんだから。彼の戦術は結果的に本末転倒となった。山本五十六は米国人を「ブチ切れ」させた。
戦後山本五十六を異常に持ち上げる風潮が流行ったが、個人的にはあまり評価していない。
以上、この三つが戦前期における日本の対米政策における決定的な失策であり、この三つのどれか一つでも回避できていれば、対米戦は回避され、あるいは起こったとしてもあれほどの大損害は防げたはずである。
大損害とはそれまで積み上げてきたもののほぼ全てを失ったという意味である。
しかし、大きく見ると、アメリカもまたアジア政策に関しては、日本を敵に回したことで失敗したと言えるだろう。満州は自分のものにはならず、中国はソ連の手に落ちた。
(写真:鉄道王ハリマン)
鮎川義介のこと 河豚計画の創始者
日産の創始者。満州へのユダヤ人5万人の移住計画の提唱者でもある。河豚計画とはそのことを指す。
樺太にユダヤ国家を建設するという話もあった。
この計画が実現していれば日本は対米戦争には入らなかった可能性は高い。というか米国は日本とは戦争できなかっただろう。
松岡洋右は米独二正面作戦でソ連の防共を画策したのだろうがドイツへの見方は誤算であった。あと半年待っていたら三国同盟は成り立たなかっただろうに。
以下はwikiより
1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[注釈 2]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右[注釈 3]ものちに河豚計画に参加。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E4%BB%8B
神々と向き合い人を見る
普段から神々のお社行き、神々と向き合う習慣を持つようになると、人間を見るときもまた同じように見ることができるようになる。
現代人は人の上っ面しかみない傾向が強くなってきているように思うことがあるが、神々と向き合う習慣の希薄化と関係があるかもしれない。
上っ面とは「肉眼」とか「気持ち」あるいは「知識」とかだけでものごとを見るということだ。
人の魂をみる力は、神々と向き合う習慣を持つことで養われる。
人間50を過ぎたら一つ一つ捨てていく。捨てた先のことはどうでもいい、という感覚。
本当に自分が求めているものだけをみるために、それ以外のことを削ぎ落としていく。
何も恐れることはない。
何故か?
どうせ誰しもこの世から消えてなくなる。
自分が魂の底から求めるものが見つかればただその中に入っていけばいい。
決して後悔することはないだろう。
それが
人の道
と言われれているものだろう。
ネットで見ても紋章として六芒星を使用する…
自家の家紋と戦国期にある六芒星(ダビデの星)の謎
父方の直系で一番古い先祖の墓は女性で元禄頃。その墓に不思議な家紋を発見した。
それが2枚目の写真。いわゆるダビデの星というものである。日本では籠目紋と言われている。
当時は墓には生家の家紋を入れるのが一般的。恐らく女性の生家の家紋であろう。
もう10年以上前になるが先祖の墓を訪れた時、通常墓の前面にある水鉢香炉台がなぜか一番古い墓と二番目に古い墓の間に押し込められるように隠されてあった。
引き出してみると見たこともない家紋が描かれている。専門家に聞く機会があったが隠れキリシタンではないかと。
しかし、キリシタンがダビデの星を使うというのは不自然で私は信じられなかった。
ところが、先日知人と話をしていたら面白いことを聞いた。
長篠合戦図屏風というものがあるがここに六芒星が背中に描かれた人々が信長の周囲を囲んでいる。
ネット上ではこれをもって忌部氏に関わるものだろうと。
さっそく、長篠合戦図屏風のグラフのようなものを購入した。
ところが不思議なことにその雑誌で扱われていた合戦図屏風には背中に六芒星が描かれている人々は家康の周りにいる。
この長篠合戦図屏風というのはいくつもバージョンがあるようで、自分が手に入れたものは、家康以来代々直参の家系の人が所蔵しているもの。
二つの屏風の構図は全く同じだが、描き手が違うことが明らかで色味や線、形状が微妙に違っている。
この紋章が入った半纏を着た人物たちが周囲を囲んでいる、ということが権力者として、何か特別な意味があるのであろうか?
だから信長の周囲にいたり、家康の周囲にいるバージョンがあるのであろうか?
当時はよく知られた意味を持っていただろうが今はその知識自体が伝わっていないのかもしれない。
いずれにしてもキリスト教徒でないことは明らかであるし、西洋人の風貌でもない。
信長の周囲にいるバージョンの屏風は大阪城天守閣博物館所蔵のもの。
また六芒星と忌部氏とのつながりを示す資料も今のところ見つからない。
今後も調査を続ける。
(写真 1枚目 長篠合戦図屏風 家康陣拡大 成瀬家所蔵 2枚目 自家先祖墓(江戸時代 元禄頃)にあった六芒星の家紋 3枚目 長篠合戦図屏風 信長陣拡大 大阪城天守閣博物館所蔵版)
減災は意識化から
東日本大震災以降で考えると、東北、長野、熊本、大阪、北海道で大きな地震が起こった。災害という意味では中国地方や福岡等での水害もあった。
今までの感覚からすると思いもよらない場所や、意識化できていないところで災害が起こるような気がする。災害は抜き打ち的に起こる。
「まさか自分は被災しないだろう」
という考えは危ないのかもしれない。意識が飛んでいる時が危ない。
高知・和歌山から千葉までの「最も起こる」と言われているエリアで大きな災害がまだないのは不気味なくらいだ。
「災害は起こるし、被災もする。」
そういう気持ちを持つこと。意識化することでむしろ減災するような気がする。
関東東海における天変地異というのも今一度意識化の必要があるだろう。
備えあれば憂いなし という言葉もある。
