豊臣秀吉の朝鮮出兵の真意~日本と朝鮮半島の関係史についてのいくつかの基本的な知識
今年対馬に行ったついでに、釜山まで行った。船でたった一時間だった。対馬の北端の比田勝という小さな漁港のような港から、釜山行きの船が出ている。
比田勝付近に鎮座する鎮守の神社の一つ、那祖師神社(なそしじんじゃ)には、スサノオがここから朝鮮に渡って事業を行った(三韓往復の拠点であったという)という由緒が書かれていた。
たしかに、対馬と朝鮮半島は目と鼻の先である。
釜山に行くと、毛利輝元が築城した石垣(釜山鎮支城石垣)が今でも残っていて、ちゃんと日本語で解説板があったのには驚いたのだが。
それはさておき、秀吉の朝鮮出兵と言えば、自分の若いころ教わった知識では、武将に分け与える所領がもうなくなったから的な話。晩年の秀吉は頭がおかしくなっていて、あれは「御乱心」なんだとか。結構ロクでもない理由が多かったように思うが、そんなものかと思ってあまり深くも考えなかった。
しかし、西国大名の大半が出兵に駆り出され、それゆえに戦力及び人心の疲弊が激しく、結果、関ヶ原では、出兵にほとんど関わらず戦力を温存できた徳川家康に敗れたんだという話などもからめて、秀吉は随分無責任な行動をしたものだとも感じていた。
ところが、つい最近、秀吉の朝鮮出兵に関する新しい学説が聞かれるようになって、事実とすれば、むしろその方が理にかなっているのではないかと感じている。
当時の覇権国はスペイン。スペインには日本侵略の意図があり、その尖兵として宣教師が送られていた。
布教→国内にスペインの支持者を作る→軍隊を送って占領
これがスペインの侵略スキームである。これで世界を、特に南米はひどかったが、占領し植民地化を進めた。
天草四郎もポルトガル軍の支援を待っていたと言う。ところがオランダ軍艦の砲撃を受けて、西洋人が自分達を襲うのかと失望したというが。閑話休題。
秀吉はフィリピンがこのようにして植民地化された事実を知っており、同時に日本国内にいる宣教師が日本人女性を略奪して、奴隷貿易を行っていた事実に激怒した。これが禁教令の理由であると言われている。
一方、スペインの宣教師は、日本の軍事力に驚いた。当時の世界の鉄砲所有量は、日本が半分以上を占めていたというのだ。種子島でポルトガル人から伝わった鉄砲だったが、極めて短期間でそれを量産できたのは、当時では西洋以外では日本だけだったという。
「国王様。日本を軍事占領することはできません。」
宣教師はスペイン国王にそのように伝えた。
スペインは、明の征服をも目論んでいたが、宣教師は、日本に対して、明征服の協力を要請したという。
このような事実から、秀吉は明がスペインに征服され、大陸から明軍と共に日本へ侵攻されたら、大変なことになると考え、朝鮮出兵を決断したという。
この話を事実だとすると、正しい名称は、「朝鮮出兵」ではなく、「明出兵」だと言えるのではないか。
出兵が取りやめになったのは、当時スペインの国力に影がさしはじめ、もはや彼等がアジアまでくる余裕がなくなったことを見ての判断だと言う。
なるほど、これなら理に適う。
朝鮮南部は古代、日本人(倭種、倭人、出雲系種族)の領域であったとは言え、白村江の戦いがあった。その後、朝鮮出兵があり、明治以降の朝鮮半島への進出も含め、日本が海外に派兵する根拠は常に大陸からの脅威に備える意味があった。
戦後、マッカーサーが朝鮮戦争を指揮してはじめて、日本が明治以降なぜあのような動きをしたかの理由を理解し、米国議会で日本の大陸侵攻は自衛行為だったと証言したという事実もある。
戦後は日本の代わりに米国が同じ仕事を肩代わりする結果になった。
ちなみに、朝鮮併合は日本が軍事侵攻して半島を占領して支配したのではない。当時の朝鮮には、4つの選択肢があった。
① 清からの属国化を脱し近代化を進めて自立独立国となること
② 清の属国化を継続すること
③ ロシアと通じて日清を牽制すること
④ 日本と通じて清露を牽制すること
① に関しては維新以降の日本人の多くはそれを望んだが、結局そういう決意を国家としてできなかった。王朝は旧態依然とした清朝従属主義から意識を外に向けるだけの感性はなかったし、国民の中からその流れを変える勢力の誕生もなかった。
これは例えば、福沢諭吉の金玉均との交流史などを見るなどすることで想像できる。
金玉均は、王朝政府によって、肉体を文字通り八つ裂きにされて市中にさらされ、関係者他家族一族皆殺しにされた。墓は暴かれ破壊された。今も半島内に彼の墓はないはずである。
金玉均は、朝鮮を日本のような近代国家にしようと考え、日本に学び、福沢の自宅に下宿していた。金の凄惨な死を見、朝鮮や清の政情を詳しく見るにつけ、福沢はアジアに失望し、脱亜論に傾いた。
残る選択肢は、②③④である。朝鮮人が最終的に決断したのは、日本との併合であり、彼等にとっては苦渋の決断であったであろうが、彼等が選んだ道である。日清日露で日本が戦勝した以上、当時アジアで最強の日本に抗しないほうが良いという気持ちもあったに違いない。(事大主義)
しかし、もし②③を選んでいたら、いまだに半島全体は、中国かロシア領で、半島全体が現在の北朝鮮のような状態であった可能性もある。それを考慮すれば当時としては賢明な判断であったのではないか。
ロシアか清が日本との戦争に勝利していたら②③の選択肢をとっていただろう。
併合後、当時の日本人は威張っていたかもしれないが、社会としては日本人も朝鮮人も同じ日本人であり、日本は本土以上の資金を注ぎ込んで半島全体を整備したのはまぎれもない事実。
バランスシートから見れば、搾取どころか、日本は大赤字である。
しかし日本人が彼等に謝罪しなければならないことがあるとしたら、それは日本が戦争に負けたことだ。それによって結果朝鮮戦争が起こり国が分断された。そして韓国が「反共の砦」として戦後、日本の代わりに厳しい国際社会の荒波の中を生きることを強制されたのは事実である。
一方で、彼らが、日本人に悪意を向けるのは、彼等の体質的な面もあるだろう。戦後の支配者の歴史をみてもあきらかなように、権力者が変わると新しい権力者は旧権力をことごとく断罪する。歴代の韓国大統領はほぼすべて、暗殺、刑務所行、自殺、家族一族刑務所行である。ほぼ例外がない。
小泉さんが首相を辞めて安部さんになったら、安部さんが小泉さんを刑務所送りにするだろうか?韓国ではずっとそうなのだ。日本人には考えられないが。
だから、彼等にとっては日本は「旧権力」の象徴という意味で恰好の断罪材料である。そういう彼等の慣習的性質から日本を国家として断罪している面もかなり大きいだろう。
日本人と交流する韓国人・朝鮮人はこのような事実をしっかりと把握して、日本に対して好意的な人もいる。
しかし、人口比率からして圧倒的に少数派であることを日本人は認識する必要があるだろう。彼らが好意的であるからと言って、半島全体がそうなるなどと考えると判断を誤る。ただし、日本が圧倒的な強国になった場合には態度が変わるだろう。
もちろん個人交流と国家交流は次元が違う。ここでは個人交流の話はしない。
最後に話を戻す。
秀吉もまた、国際社会を見据えての朝鮮出兵であったという説に関しては今後さらに研究が進むことを望む。
それは同時に日本と朝鮮半島の関係史を考える上でも良い影響があるだろう。
(写真:一枚目 対馬那祖師神社、二枚目 同由緒、三枚目釜山鎮支城石垣、四枚目 同解説板)
日本と沖縄の文明的な関連性を考える上でのごく基本的な知識について
日本古代の天皇は基本的に第二子がなることになっていたようだが、第一子は何かというと祭祀を司った。
古代において、統治王たる天皇と祭祀王は別であり、ヒミコとは古代祭祀王(女王)の総称だという。
竹内氏の書によれば、男子が祭祀王になると国が乱れたという。俗に言う「倭国の大乱」とはこの時期のことをいう。
それ以前は女性が祭祀王となったが、一時男子がなり世が乱れたので再び女性がなると世の中は鎮まったという。
琉球神道は、聞得大君という祭祀の最高位を女性のノロ(神女)が担う。琉球王は男子である。
このように祭祀王と統治王が別々に存在し、古代においては女性が主に祭祀を司るという関係性は日本と琉球において類似している。
ある時期を境にして支那からの文化が多く流入した関係で、あたかも沖縄はどちらかというと支那文明に近いかのごとくに考える傾向があるが完全な間違いである。
おそらく、日向系種族は沖縄方面の南洋経路で鹿児島県の薩摩半島南端に到着した。
これは戦前から現代に至るまで多くの人が論じている。
オオワタツミ神は、九州から台湾までを影響圏に収めていたという。
今沖縄問題が激しいが、このような日本と沖縄との文明的に緊密なつながりを全く論じないで、いたずらな感情論を繰り出すのは危険であり、「敵の思うツボ」になると私は思う。
大和人も琉球人も少し冷静に考えなければならない。
沖縄の古代王族を天孫氏という。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E6%B0%8F
以下、「聞得大君」に関するwikiの説明抜粋
聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。琉球全土の祝女の頂点に立つ存在であり、命令権限を持った。ただし祝女の任命権は国王に一任されていた。また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。
(動画 沖縄最高の霊地とされる斎場御嶽)
https://youtu.be/zkS_jmB0-NY
今日の国際社会の動きを見て感じたこと
トランプ政権が中国に対抗して貿易戦争をしかけており、両国の関係に緊張が走っているといった論調の一般メディアの報道がある。
中華人民共和国に対して否定的なのは、トランプ政権であり、彼がそれを仕掛けているのだという話は、事実でもあり不十分な情報でもあるのは、トランプ本人よりも、米国議会全体として、それ以上に対中強硬策に傾いているという現実を見る必要があるのだろう。
トランプは米国全体に漂う「風潮」に乗っかりつつ、またそれを以前から指摘する一人でもあったが、かつて、レーガン政権が、ベルリンの壁崩壊後、結果ソ連崩壊へと導かれたのと同じプロセスで中華人民共和国という国家に対する戦略を進めつつあるのは、ほぼ間違いないだろう。
これはもう、単なる貿易戦争の枠組みを超えつつあるということだ。
彼、というよりも彼等は本気でそこまで考えており、そのための「からくり」やら「やり取り」やら「駆け引き」を進めており、その流れの中での朝鮮半島問題を考えたとき、南北の戦争状態を終焉させることは、東西ドイツの分裂を終結させることと同義であり、それはすなはち、ソ連の崩壊と中華人民共和国の崩壊は同義ということになる。
ベルリンの壁崩壊が起こったのは、平成元年であった。
朝鮮半島情勢に決定的な変動が起こるのもまた、次の御代代わりにリンクするだろう。
半島の歪みが消え去り、中華人民共和国が崩壊したならば、統一半島国家がどのような方向性を向くかは、全く見えない面も多いが、中国が共産党政権の崩壊と同時に国家分裂を起こし、湾岸寄りの新国家が洗練された資本主義社会への構築に舵を切ったならば、半島はその新国家に従属するかもしれないし、米国が自ら半島情勢全体にコミットする意思を再び示すことになったとした場合には、新中国が資本主義的色彩を見せたとしても何等かの対立軸がそこに生まれるだろう。
どれほど、中国が洗練されたとしても、香港やシンガポールのような商業国家として栄えるのは湾岸地域の限られたエリアになるだろうし、それ以外の地域においては、いくつかの地域はかつてのソ連のウクライナやグルジアやベラルーシやバルト三国のように分裂離脱し、いわゆる「中原」は現在のロシア的な国家体制が非共産党体制下で継続してゆくであろう可能性が高い。
日本は相変わらず昼行燈のようにゆらゆら揺らめきながら、行方をただ見守るだろうが、今後10-20年後の日本の形というのは、新しい御代が定まり、ある種の「空気感」「雰囲気」の中からしだいに読み取りつつ明らかにしてゆくしかない。少なくとも現状ではその程度のことしか浮かばない。
戦後すっかり商人(あきんど)国家になった日本は、インバウンドで金を落としてくれる人々を歓迎するのは良いとしても、魂まで金儲けのために平気で売るようなことだけは避けたいものだが、国家の方向性というものもまた先行き長いスパンで考えると読めない部分もある。
いつまでも日本がただの商人国家であり続けるのか、あるいはもっと別の価値観を国際社会に現すことができるのか。それをよく見ていかなければならない。
世界の中における文明史的視点にたてば、日本がただ昼行燈であり続けるならば、それは世界における悲劇をもまた意味することになるだろうと私は確信している。
しかし、日本にそれが起こるとしてもそれはまだ少し先の話になるかもしれない。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181008-00000048-jij-n_ame
出雲大和の国譲りは明治維新にも大きく影響している
歴史は同じことを繰り返すが、どんな歴史にも核となる源泉が必ず存在する。その源泉から次第に雪だるまのようにその後の要素を付け加え、表面的には形を変えつつ次の歴史を形成していく。
古代史を見ていると、同じようなストーリーが出てきて、しかし名前が違う。ということがしばしばある。
伝わった地域が違うと、人の名前が変わることもあるだろう。だから、歴史家はしばしばそれを同じ話だとして片づける。
そういう側面もある。しかし、歴史は同じ事象を繰り返す、ということをしっかり認識する必要がある。
現在の鹿児島県に起こった日向系勢力が、現在の島根県にある出雲勢力と向き合うと、国譲りが起こるが、一部反乱軍は東方へ逃げる。今の諏訪である。
初めは敵対していた、日向、出雲の勢力はその後和合して、大和中心部へと軍を向ける。
連合軍は、大和勢力に国譲りを迫り、大物主は了承するも、長髄彦は反乱し、東方へ逃げる。今の東北地方へ落ち延びたという説がある。
日本の場合、大きな政変、政権の交代などが起きる場合、必ず西から起こって東を制する。そして旧勢力は東に逃げる。これが定石で古代から現代にいたるまでこれを繰り返している。
足利氏は、東から西なので、違うようであるが、尊氏は一旦敗退して九州へ落ち延び、兵を立て直して東へ向かうのでやはり定石に従っていると言えるだろう。
徳川は東から西向きの勝利で異色だが、権力の基盤を整えたのは、西の三河から東の江戸へ向かってのことであり、源氏が西から東の鎌倉に拠点を移したのと似ているだろう。奇しくも頼朝が生まれたのも家康と同じ愛知県である。頼朝もまた西軍の平氏を破ったが、その後仲間割れが起こり、義経は東へ向かった。
古代から現代に至るまで、権力の基盤は、室町時代を除き、しだいに西から東へと移動している。しかし、この法則が将来も続くかどうかは何ともわからない。
鹿児島にあった薩摩勢力が、敵対していた山口の長州勢力と和合して、江戸へと向かう。この図式は古代の日向、出雲勢力が神武東征した経緯と全く同じである。
明治維新は古代の日向、出雲、大和に起こった事象の繰り返しの現象であることは明らかである。明治維新においては、かつての神武天皇のように、明治天皇という存在を大きく浮かび上がらせることになった。ある種の復古だと言えるだろう。
このように見て行くと、古代日本に何が起こったのか。国譲りとはどのような背景を持ち、経緯を辿ったのかはおのずと想像することができる。
徳川慶喜が、大政奉還したというのは、国譲りそのものであって、出雲や大和で起こった国譲りの経緯と差異はないものと判断する。
古代大和の支配者の目線から見た時、西からやってくる勢力には何等かのシンパシーがあったに相違ない。同時に現政権の構造的欠陥も支配者の目線からみて明らかであったのかもしれない。
ただ、明確に言えることは、古代から現代にいたるまで、日本の国土に出現した支配者、特に大きな政変が起こる時、交代の役割を担う支配者が基本的に賢明であったことだ。自分の権力や利権にしがみつき、どんなことがあってもこれを手放さないという欲があったなら、「国譲り」は起こらない。
国譲りが起こらなければ国土の分裂が起こり、とてつもない怨念が残ることになるだろう。それは最終的に、朝鮮半島のような国家分裂を引き起こす元凶になる。
とはいえ、支配者がかくほど賢明であっても、それに従う忠誠心の篤い人々は、そんなもの分かりの良さに我慢できない。かつて、建御名方や長髄彦が東へと向かったように、会津、長岡らの旧幕臣達ら一部勢力もまた東へと向かう。東の果ての函館まで。
支配者にさほどの怨念は残らないが、下で忠誠を誓う者達の怨念はかなり長い時間尾を引く。どれほどそれが長いのか。それは、古代から現代まで繋がっている。
魂の源泉は同じだと私は思っている。理屈ではないのだ。だから同じことが繰り返し起こる。
しかし、そういう時、日本人はその解決法を持ってきた。
怨霊の御霊鎮めであり、その代表が出雲大社ということになる。
大きな変動が起こる時、多くの報われぬ魂が必ず出現する。
そういう時、我々日本人は、怨霊の御霊鎮めという、優れたシステムを思い出す必要があるだろう。このような考え方は世界の他の文明にほとんど見られなものだ。だから世界史の中で見ると日本は格段に人の心が荒れないのである。
このことを日本人は決して忘れてはならない。これは日本文明の智慧の結晶である。
(写真:出雲大社 大政奉還の図 wikiより)
日本の海軍が旭日旗を使うのは、日本の古代…
邇邇芸命と饒速日命との関係(ノート3)
日本最古の系図で知られ国宝にもなっている籠神社に伝わる海部氏系図によれば、
邇邇芸命の兄、天火明命が海部氏の祖であるというが、天火明命が饒速日命と関係ありとするならばどうか。
饒速日命は 天照国照彦火明櫛玉饒速日命と言われている。神武天皇が東征した際、大和の王であった饒速日は同じ天孫系であった。
同じということは同じということだ。
天火明命系=饒速日系=大物主三輪系
この時、三輪系の権力基盤は後の鎌倉幕府に近かっただろう。源氏系が主となるが、妻方の北条氏が権力構造において優勢であったように出雲系が優勢であった可能性が高い。
神武が大和に入って長髄彦は反乱したが、饒速日が神武を迎え撃ったという形跡はない。同族だったからと考えれば納得がいく。
饒速日の后は出雲系であったかもしれないが、すでに出雲も国譲りが済んだ後のこと。
神武が大和に入って後、いまだ権力基盤は確定的ではなく、十代崇神天皇に至ってようやく天皇家の権力基盤が確立したとすれば、その間、饒速日系から邇邇芸系への権力の移行期が数代に渡り存在したことになる。
神武系はあたかも鎌倉末期の足利氏のような立ち位置であったに違いない。
両者は敵対したというよりも同族間の共同統治的な中での力の探り合いがあったと考えることもできるだろう。
歴史というのは頻繁に似たようなことを繰り返す傾向がある。歴史に詳しいものは歴史をこのような視点から見るだろう。
(写真出典 http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51917633.html)
忌部氏と事代主と猿田彦(ノート2)
忌部氏と中臣氏は共に祭儀を司る役割を持った氏族であり、忌部氏は、神武から数代にわたり天皇家と深い関係にあった。
神武から数代に渡る天皇の后は忌部氏系であったと推察される。この時期天皇家の拠点は畝傍山の周辺、葛城地方にあった。
その後天皇家が三輪氏(物部氏)系列と深い関係を結び、なおかつ物部氏が権力を失って後、中臣氏が天皇家の祭儀の中心になるに従って影響力を失っていったようだ。
徳島県(阿波)は、忌部氏の拠点だが、戦前のこの地方の忌部氏に関わる資料を見ると、忌部氏は応神天皇の時期に、大和地方に大乱が起こり、難を逃れて阿波に渡ったとされる。
忌部氏は、その後朝廷に麻を献上する役割を担った。
阿波国一之宮大麻比古神社は忌部氏に関わりの深い神社であるが、その名の通り、麻と関わる神社であり、社紋も麻をモチーフとしたものだ。
この社紋が、ダビデの星(六芒星)に類似していることから、忌部氏=ユダヤ人説が起こり、かつ阿波、淡路地方にユダヤ教の祭祀施設に極めて酷似した祭祀址があるということで話題にもなっている。
大麻比古神社の祭神は猿田彦であるとか、あるいは忌部氏の祖神であるとか言われるが、恐らく両者には何等かの関係があるだろう。
猿田彦もまた、五十鈴彦(イエズス)とか、ユダヤ人説のある神である。
阿波に下った忌部氏は、その後、紀州や房総の安房地方にも赴いた。
房総にある安房神社は、阿波国の大麻比古神社に配置及び空気感にいたるまで極めて類似しており、大いに興味をそそられる。
安房神社は、大化の改新の時、唯一神社の私有が認められた八神郡が制定されたがその中の一社に数えられている。これが日本国の古代における主要八社であり、古代において極めて重要な神社であったことがうかがわれる。
この八社は自らの領地の所有が認められたいわば別格社であった。(伊勢内宮、伊勢外宮、宗像大社、出雲熊野大社、日前・國懸神宮、安房神社、香取神宮、鹿島神宮)
蘇我氏は忌部氏の後裔であり、一族に武内宿禰もいる。蘇我氏というと仏教の印象が強いが、本来は社家である。
日本書紀によれば、神武から綏靖、安寧の三代の后は、事代主神の娘あるいは孫とされており、事代主神の後裔、又は非常に関係の深い一族と考えられるが、この時期天皇家は葛城地方を拠点としていた。それはすなはち忌部氏ということになる。
神武及び二代綏靖天皇の后には、「五十鈴」という名が含まれる。
事代主→忌部氏→猿田彦とは極めて深い繋がりがあると考えられる。
(写真:大麻比古神社の社紋)
事代主は猿田彦の系譜かを考えるためのノート
神武から綏靖、安寧までの三代の后は、日本書紀によれば、事代主神の娘、あるいは孫であると書かれている。
神武天皇后 ヒメタタライスズヒメ(事代主神の長女)
綏靖天皇后 イスズヨリヒメ(事代主神の次女)
安寧天皇后 ヌナソコナカツヒメ(事代主神の孫 鴨王の女)
五十鈴とは何か?
伊勢の五十鈴なら猿田彦の印象。
猿田彦(五十鈴彦)は伊勢の五十鈴川に住す。
事代主が大国主の子でないことは間違いない。
事代主と賀茂氏とは関係がある。
宮中三殿に八神殿(現在は神殿に合祀)があるが、八神とは天皇を守護する八柱の神々である。天皇守護という観点において最も重要な神々であることは言うまでもない。
八神とは、
神皇日神
高御産日神
玉積産日神
生産日神
足産日神
大宮売神
御食津神
事代主神
であり、実在の人格を持った神という意味では事代主神のみがそうである。他は変化神のような神々。
以前からこれが非常に気になっていた。
事代主の本宮は出雲の美保神社である。
事代主が素戔嗚の子であると感じたこともある。
しかし、事代主は本当に出雲にいたのか?
出雲国譲りの時、タケミカズチはオオクニヌシに国譲りを迫るが、事代主に聞いてくれという。
このオオクニヌシの存在感の希薄さは何か?国主であるはずだがこの無責任さは何を意味するのか?私にはこの神は何か置物のような印象でしかない。
出雲に佐太神社がある。出雲神集いの祭儀(神在祭)が行われていた場所として最古と言われているが、神殿は横並びに三殿あるが、
正殿
佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
北殿
天照大神及び瓊々杵尊の二柱。
南殿
素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。
(Wikiより)
となっており、神殿後方の山にイザナミの御陵があるとも言われている。
佐太御子大神とは猿田彦かあるいはその末裔であろう。
南殿は素戔嗚系であるが秘説四柱とは?
神武から綏靖安寧までの三代は、葛城地域において、事代主系列の姫が后となる。
なぜ事代主の系譜が大和にいいるのか。
古事記では事代主ではなく大物主(饒速日)の娘が神武天皇后 ヒメタタライスズヒメであるとなっているので、事代主ではないということになるが。
しかし、五代孝昭天皇の代からは古事記、日本書紀共に物部氏系列の姫が后になっている。
神武から四代懿徳までとそれ以降では宮址にズレがあることから、一貫して物部氏系列の后であるとは言い難いという説があるが確かにそういう気がする。
十代崇神天皇以前の段階では、天皇家は大和地方の一勢力であったと考えられる。
しかし、
大物主(饒速日)と事代主、猿田彦との関係はどんなものか?
(写真 佐太神社 美保神社)
米国の失策 日本を徹底的に叩いたのは米国自身の国運までを縮めた
第二次世界大戦において米国が参戦したのは、英国を助けたいという理由以外、際立った起因はないように思える。日本との開戦は、そのための出汁にされただけであり、日本にとっては、いわばとばっちりに過ぎないのだとも言える。
日本を徹底的に叩きのめして、アジアにおける日本の権益を一つ残らず奪い去った米国の政策は、明らかに米国自身のアジア政策の失敗を意味している。そのことを少しみていく。
それは、大きく見れば、結果的に米国自身の国運を縮めるものですらあった。
米国は戦前から、中国における利権を獲得するため、国民党に肩入れし、日本を牽制していた。またそれ以前においては、日露戦時における日本への戦費調達に協力し、戦後、満州における利権を得ようと画策したことは前回の文章で記載した。
第二次大戦による日本敗北の結果、満州、朝鮮半島における影響力が奪い去られたことで、米国は満州における利権を得ることに最終的に失敗したのみならず、中国の共産化を促進させ、結果的に戦後の朝鮮戦争を誘発させるに至った。
中国が共産化していなければ、東南アジアにおける共産化も鈍化したに違いない。
米国は最終的に、満州の利権と中国における影響力を得ることに失敗したばかりでなく、不要な戦争(朝鮮戦争)までする羽目に陥った。
さらに、ベトナムに共産勢力が入らなければベトナム戦争もまた起こらなかっただろう。ベトナムの共産化は中国の共産化に密接であることは言うまでもない。
ベトナム戦争によって、米国は明らかに自らの国運をすり減らした。これ以降、米国の国運は下り坂へ向かうことになる。ベトナム戦争がなければアメリカ合衆国としての国運は現実のものよりは息の長いのもになっていただろう。
そして、ベトナムのみならず、カンボジアの共産化による、目を覆うばかりの惨劇も起こらなかったかもしれない。
戦後、日本は復興して大いに栄えたが、アジア全般として見た場合、日本のアジアにおける影響力の喪失によって、結果的に、アジア圏としてみた場合の世界におけるアジアの立ち位置はワンランク低いものになったことは確実である。
満州国が存続していれば、米国や欧州の自由主義経済圏は早い段階で、アジアにおける経済的発展による利益を享受できたかもしれない。
朝鮮半島の分断はほぼ確実に免れ、近い将来、名目的にであれ、独立し満州地域と合わせてアジア圏の中心地域の一角として繁栄した可能性もある。
一方、中国においても、満州国が防共の障壁となれば、共産化は免れたかもしれない。
国民党は米国からの支援を得ていたが、日本とも共闘する方向に舵を切りなおせば、共産軍はそれほど脅威にはならなかっただろう。
すると、中国もまた満州、朝鮮半島地域と共に、早い段階で自由主義世界の一員として発展した可能性がある。
台湾に敗残の国民党がなだれ込み、多くの台湾人が犠牲になるような事件もまた起こらなかったことは言うまでもない。
こうして見ると、米国における当時のアジア政策は、単に日本に勝利したというだけで、それ以外に特筆すべき成果はほとんどないのである。
英国を救わんがために、第二次世界大戦への参戦の口実として、日本を開戦へと誘発させたルーズベルト政権及びその後の米国政権のアジア政策は結果的に「敗北」したに等しい。そもそもアジアをどうするかという政策自体希薄だったのかもしれないが。
100年後、米国史を彼ら自らが振り返ってみた時、日本との開戦までは良かったものの、その後、日本のアジアにおける影響力をことごとく奪い去った自らの政策、戦争方針は間違いであったと見るようになるのではないかと私は思うにいたった。
日本とはほどほどのところで停戦し、早い段階で日本と協調して、アジア政策を進めることができていれば、アジア史というものもまた随分変わった景色になっていたであろう。
もちろん、そうなった場合、他の戦争が起こったかもしれないし、日本人が、奢ることなく、冷静に世界戦略を遂行できたかどうかはまた別の視点が必要になるだろう。
日本にとってどちらが良かったかまでは誰にも分からないが、あれほど国土を徹底的に破壊され、多くの国民を亡くし、自らの文化文明を破壊されたことを考慮すれば、あれで良かったんだと喜べるものでないことだけは間違いのない事実である。
(写真:フランクリン・D・ルーズベルト)
戦前日本の対米関係の三大失策
日本の戦前期における対米関係には大きくみると三つの大きな失策があり、この三件に関して失策がなければ、対米戦争の回避、あるいは損害を最小限に抑えられたと考えられる。
まず一つは、日露戦争の戦費が不足していた際、アメリカの鉄道王ハリマンと実業家シフらが、日本に対して巨額融資を行ったが、ハリマンらは戦後の見返りを期待してのものだった。
日露戦後、ハリマンは南満州鉄道事業に加わらせて欲しいと提案してくる。ハリマンからすれば自分が金を貸したから日本が勝てたんだ。そのくらいの権利を主張できるはずと考えていただろう。
当時の首相桂太郎他、主要な政治家の大半はこの提案を基本的に受け入れる方向で意見が一致していたが、外相小村寿太郎がただ一人この提案に激怒して、なかば強引に反故にしてしまう。
日本人が血を流して得た権益の半分を無傷の米国が手にするなど日本国民が許さないだろうということや、いくつかの問題点があったようだ。しかし、完全に拒否するのはまずかった。
ハリマンは激怒し、これがきっかけとなり、米国の対日感情は決定的に悪化する。これ以降、米国が日本を仮想敵国とするようになる。
二つ目は、先日記載した、河豚計画の頓挫である。河豚計画が実現し、ユダヤ人の移住が行われ、アメリカ資本を満州に引き入れることができていれば、日米関係はかなりの程度回復し、米国は対日戦を急ぐような真似を起こさなかったであろう。起こさなかったというより、起こせなかったと考えた方が良いかもしれない。
しかし、この計画も日独伊三国同盟が深化していくに従い、頓挫していく。これは松岡洋右をはじめ、当時の政治家や軍人たちの国際情勢判断が性急過ぎたことが原因であろう。松岡洋右は戦後悪人呼ばわりされているが、彼の判断は、当時の国際情勢に照らせば、かなり深みのあるものだった。しかし、ナチスドイツに対する見方に慎重さが欠けていた。
彼は、共産主義を牽制し、当時世界の最大覇者アングロサクソンをも牽制することで、日本の存在感を示す、あるいは自らの地位の安定化を図るという図式であったはずである。ウルトラCを狙いすぎたのかもしれない。
そして最後は、日米戦突入が決定した後のこと。当時、海軍軍令部も陸軍参謀本部も、日米戦に関して一定の計画を持っていた。海戦に関してはできるだけ日本近海まで米国艦隊をひきつけてこれを迎え撃つ、という日本海海戦型の戦術であった。しかし、山本五十六がただ一人この基本作戦に猛反対し、無理やり真珠湾攻撃に切り替えさせた。
確かに戦術面だけ見れば、真珠湾攻撃は世界戦史上のエポックメイキングな闘いであり、華々しい戦果であったには違いない。しかし、当時8割以上の米国民が戦争突入には反対であったものを、日本に対して激昂し、徹底抗戦の意志を固めさせてしまうという、戦略上の大失策である。(もちろんそれが当時の米国大統領ルーズベルトにとっては願ったり叶ったりであったことは近年の研究で明らかになってきている)
日本海海戦は戦術的にも戦略的にも成功したが、真珠湾はそうではない。
ゆっくり宣戦布告して、日本近海で米国艦隊を引き寄せて、迎え撃っていたら、日本側の損害もある程度出ただろうが、当時の軍事情勢からして、日本の勝利はほぼ間違いなかっただろう。そこで米国内の厭戦気分をさそって優位な戦争終結に持っていくことは充分可能だった。
そもそも短期決戦というのが日本の基本戦略であって、長期戦なら米国には絶対勝てないというのは、山本五十六にしたところで当時の軍人達の一般常識だったんだから。彼の戦術は結果的に本末転倒となった。山本五十六は米国人を「ブチ切れ」させた。
戦後山本五十六を異常に持ち上げる風潮が流行ったが、個人的にはあまり評価していない。
以上、この三つが戦前期における日本の対米政策における決定的な失策であり、この三つのどれか一つでも回避できていれば、対米戦は回避され、あるいは起こったとしてもあれほどの大損害は防げたはずである。
大損害とはそれまで積み上げてきたもののほぼ全てを失ったという意味である。
しかし、大きく見ると、アメリカもまたアジア政策に関しては、日本を敵に回したことで失敗したと言えるだろう。満州は自分のものにはならず、中国はソ連の手に落ちた。
(写真:鉄道王ハリマン)
