神の大小と人の大小

神様には大きい神様もあれば小さい神様もいるというのは事実だ。伊勢神宮や出雲大社や三輪山の神様のような大きな神様もいれば、田舎の実家の裏山にいる小さな神様もある。

しかし小さな神様を大切しているからと言って、大きな神様を大切にしていることよりもそれは小さいということにはならない。

小さな神様を大切にしている人が世の中に大きな影響を与えたり、世のため人のためになる仕事をすることはいくらでもある。

大きな神様を大切にしているからと言ってそうなるわけでもない。

神々の大小とそれに関わる人々の大小は、正比例もしなければ反比例もしない。

だから小さな神様だからと言って雑に扱っていいという話ではないし、大きな神様、最高神が一つあれば他の神様は不要であるというのは大きな間違いである。

巨人が一番強いから巨人以外のチームは不要である。もはや野球をする必要はない。してもいけないんだと。そういうことと同じである。

巨人ファンが最高のファンであって、それ以外のファンは大したもんじゃない。と言うのとも同じである。平家にあらずんば人にあらずとは?

いやあ、神様の話と野球のチームの話では、話が違うだろう。次元が違う。

そう言うかもしれない。しかし、私は全く同じだと感じる。

恐らくこの話は、たとえ、次元が違っても、宇宙の果てまで変わらないのではないか。

日本人ほど宗教音痴は民族はいないと言われるが日本人ほど宗教的な民族はいない。

日本人は世界の宗教情勢や世界がいかに動いているかを宗教すなはち文明という観点から見る知見がもっと必要である。

日本人はもっと「宗教的」になる、あるいは「宗教性の知見を身につけ」ねばならない、とは「全く」思わない。

日本人の本質は古来からのままでいい。しかし日本人は日本文明を担う者としての自覚が格段に必要とされるようになってきている。

神道は文明のファームウエアである

神道は世界の諸文明のファームウエアとなる。

これまでの全ての文明は、自分の価値観、すなはちソフトウエアを他文明に押し付けたり強制したりした。

それによる確執、諍い、怨念というものがやがてその文明を衰退させ、破壊してゆく。ルサンチマンは根が深い。

どれほど強大なものでも壊れる時は瞬時に起こる。

神道=日本文明はそうならない。

神道はソフトウエアを強制することはない。またそうなってもいけない。

ファームウエアというのは仕組みであり、基礎だ。思想ではなく思考でも理念でもない。

ソフト(思想・理念・価値観)はそれぞれの世界観に委ねられる。

ファームウエアとは、天地人の祭りごとという意味だ。

この二千年間の世界の諸宗教は天しか知らない。

シュメール(バビロニア)〜エジプト〜マケドニア〜日本を繋ぐ太陽神のシンボリズム

ごく簡単な朝のブレインストーミング。

シュメール/バビロニアの旭光を意味する神字(写真一枚目)は日本の旭日旗(2枚目。3枚目は神武東征図)と同じだが、旭光といえば、アレキサンダーのマケドニアを象徴するシンボル(4枚目ーマケドニア国旗)も同様である。

エジプトの太陽神ラーのシンボリックな絵図には太陽を象徴する赤い円(5枚目)が描かれているが、これを見るとゼロ戦の翼に描かれた国章(6枚目)を思い出す。

(ゼロ戦の模型の写真は引用:http://kurage55.blog60.fc2.com/blog-entry-527.html)

神々の声を聴く力が失われた時 一神教が起こったという

西日本豪雨で大きな被害を受けた岡山県の真備町。この町名を聞いた時、恐らく神道に興味深い人間であれば、吉備真備を思い出し、それを祭神とする神社について調べもしたに違いない。

事実、真備町は吉備真備の生誕地である。平安時代ならば、このような被害がこの地に起こった時、その御霊を鎮める意味で神社を勧請するか、既にそれがあれば祭事に重きをなしたに違いない。

私もどちらかと言えば、平安人に近い面があるから、そうすべきと考えた。調べてみると真備町ではないようだが、吉備大臣宮という神社があるようだ。吉備真備という人物は遣唐使などになり、菅原道真に並び平安時代において藤原氏以外の出自で大出世をしたただ二人の人物の一人であるという。

菅原道真のように多くの政争にもまれ、何度も左遷の憂き目にあうが、道真のように不本意な最期ではなく、最終的には平穏なキャリアで一生を終えたようであるが。今なぜ吉備真備なのか。そう思うところではある。

吉備真備の御霊鎮めを行うのが良い。吉備真備の周辺の歴史と、御代替わりをめぐる出来事には何か繋がりがあるだろう。

現代人には「理性」というやつがあるから、そんな迷信じみたことはしないのだろう。ある書によると、古代人には、二心あって、ひとつは自分のことを考える心。もうひとつは、神々の声を聴く心。二つの心を持っていたのだと。

近年ではこれを右脳、左脳というのかもしれない。現代人は「理性的」だから、それを脳の機能論として捉えるのだろう。私はもちろんそうは思わないが。

しかし、たとえ機能論だとしても、いや機能論だとするならば一層、現代人において、その片方の機能が衰えてしまったのだということは間違いがないところである。

歴史的に見ると、「二心」が衰えて、人類に神の声が聞こえなくなった頃とほぼ時を同じくして一神教が起こったのだという。

「理性」と言う概念が、キリスト教文明によって発達したことは間違いのない事実である。

「神を失った」「神に見放された」

という思考はキリスト教的である。

アスペルガー症候群という病気があるが、この症状のある人には、特定の能力が極めて発達して人間離れした天才のような人物があることがある。モーツファルトもそうだったのだという話を聞いたことがあるが。

一神教という概念は、神の概念からすると極めていびつなものだと私は思っている。これはあたかも、宗教的アスペルガー症候群のようなものだと私は感じる。

だから、現代文明はいびつなのかもしれない。恐らくそういう矛盾や亀裂のようなものは必ずあるだろうし、誰しもそれを感じるはずである。

古代人にエゴ(我)と神を認知する力の両方があったというべきか、エゴ(我)が未発達であったがゆえに神の認知が可能であったのかは分からないが、恐らく人間にエゴ(我)の増幅という必要性なり欲求が起こったことは間違いがない。

人類のエゴ(我)を発達させるために、神が「一神教」というツールを人間に与えたのだと私は思っている。

しかし、一方でこういう声が聞こえてもくるのである。

「もうそろそろこの辺でいいだろう」

一神教はもう既に充分すぎるほどその役目を果たし得たのではないか。

その意味で、日本の世界史における勃興というものは、神々の采配であるようにも思えるのだ。日本という国はこの二千年間の世界史的プロセスからみると「異空間」「異端」であることは間違いがない。

(写真:『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 wikiより)

理性とは

理性理性と声高に叫ぶ人間ほど欲深いものだ。

何事も、見た目と真実とは逆なことが多い。

理性という言葉は要するに自分の欲望を満たすための方便として、確実にそれを成就するための最善のツールとして、そして己の醜い欲深さを糊塗するための言い訳として人間が使ってきたもののようだ。

純朴さや素朴さに、素直さ、あるいは真の美しさに「理性」という言葉はほとんど無関係であるが如し。

富の分配と社会幸福達成の真理とは

富の分配の本質的な理想形態は、一か所に集まった富をできるかぎり多くの人々に再分配するということではない。

それぞれの地域、民族、文化、文明のエリア内において充分に満足感の得られる社会を世界全体として相互に促進していくことであろう。

富の集積度=幸福、社会の安定

ではないということだ。

日本はそういう意味で、かつて、朝鮮半島、満州、台湾という諸地域を管轄したが、その目的を充分に果たしえたと言えるだろう。

これまでこれらの地域における日本の地域管轄においては、負の印象ばかりを最大限に誇張されてきた。

しかし、近年になって、これら諸地域における日本の経営実態が明らかになってきており、どの地域でも、経済運営という意味では成功したのである。

一方、西洋の植民地帝国主義下の諸国が彼等の植民地経営によってその地域の真の発展に寄与したかといえば否である。こういった地域の中では近年いくばくか発展の萌芽はあるもの、それは彼等の自力によるもので、少なくとも宗主国たつ西洋国家が、植民地下の諸国の発展を意図して経済運営を行ったとは到底言い難い。

近年の中国の異常な海外投資にいたっては、さんざん資金供与しておいて、返済不能になると、借金のかたに土地を奪われ、彼等の軍事拠点にするという現状である。富のエゴイズムでしかない。

こういう観点からも今世界が最も必要とされているのは、かつて日本が目指した、相互発展&幸福度の高い社会をそれぞれの地域、文化、民族のベースメントにおいて確立するということではないか。

日本文化の基本的な気質によって、そのようなノウハウを世界に示すことができるはずである。

言うまでもないことだが、もちろん、これは再び日本が過去のように諸外国を併合するとか、政治的に管轄するということではない。