弥生人大量渡来説の嘘くささ

日本の古代史関連の書籍を読んでいるとイライラすることが多い。

判で押したように必ず出てくるのは、弥生人の大量渡来説である。

水耕稲作をもたらした弥生人が大陸から大量流入したというおきまりの話なんだが。

そもそも古代において海を渡って大量の移民が流入することなど不可能では?なんだか当たり前のように言っているが。

北方騎馬民族大量渡来説もそう。そもそも騎馬民族がどうやって「大量に」海を渡ってくるのか。騎馬民族と渡航渡海がどうしても繋がらない。騎馬民族がそういう発想をするようには私には思えない。

馬に乗ってるんだから。海を渡るくらいなら、西へ行くだろう。陸の人なんだから。

縄文人が弥生人に駆逐されたとか。

時代が変わって新しい技術が日本にもたらされたのは古代だけではない。

幕末維新においては、西洋の技術が大量に流入した。だからと言って日本列島に西洋人が大量に流入したわけではあるまい。

一万年後に、江戸から明治時代の変化を考古学的に調べると、ある時点を境に全く服装や出土品に変化があるから、恐らく異民族が大量に流入して既存の民族を駆逐したに違いない、という学説を唱える者がでるだろう。

武士が刀を捨てて、商人になったのは時代の変化ゆえだが。それを持って、武士民族が商人民族に駆逐されたとは言えまい。人間など時代が変わればやることも変わる。

一部の人は昔の生活をそのまま保つこともあるだろう。

漁師、猟師と農民では風貌は違うだろう。

よくいわれるのは、骨格の違いで縄文人と弥生人を分ける話。

現代人と戦前までの日本人。江戸以前の日本人ですら骨格はかなり変わってきている。

戦後日本人と戦前の日本人というのは、私の中ではもうほとんど「別人種」である。同じ日本人とは言えないほど違っている。

食習慣が変われば体形や骨格が変化するのは当たり前。ましてや弥生縄文というのは数千年とか数万年という時間経過がある。

確かに日本には、多くの「種族」「民族」混交のプロセスがあると思う。

今でいう東北地方と関西地方ではかなり違う要素が感じられる。北から、南から半島大陸から多くの渡航者があり、さまざまな文化を伝えてはきただろう。

飛鳥時代から奈良平安にかけて多くの帰化人が流入したことは事実である。

とは言え、弥生人の大陸からの大量流入という話はどうしても嘘くさい。本を読んでいると、多くの学者はこの問題にほとんど疑問がないかのごとくに論じているが、よくよく見ていくとそれほど根拠があるようにも思えないのである。

雰囲気で言っているだけなのでは?

多分誰か言い出しっぺがいて、それをそのまま受け売りで信じているに過ぎないのではないか。学者の言い分など100人いれば100人言うことが違う。

漁師が、「明日は雨だ」と予測するよりも学者の理論の的中率は低いのではないか、というのと同じ感覚で、読書する。学べるところだけを学ぶ。全て信じない。自分の感覚を信じる。これは重要なスタンスである。

エリ エリ レマ サバクタニ

神も仏もあるものか!

とは日本人の捨て台詞かもしれねが、イエスキリストも同じような台詞を吐いている。

「エリ エリ レマ サバクタニ」

十字架に磔にされたイエスが天に向かって投げかけた言葉である。イエスの遺言かもしれぬ。

我が神よ 我が神よ 汝はなぜ我を見捨て給う

神の子イエスも父なる神の真意を理解できなかった。理解できていればこんな台詞は吐かない。

これはイエスの「人間臭さ」を知る重要な手がかりであろう。

イエスは神に見捨てられたのか?

ならばキリスト教の信者とは神に見捨てられた人間の言葉を信仰しているというのか?

キリスト教学上は、イエスの復活を持ってこの疑問に終止符を打つのだろう。神に見捨てられていなかったことの証明ということか?

弟子達はイエスの復活を見てイエスの存在を再認識することになる。これをもって彼らは真の信仰に目覚めたとされる。

これは「顕現」ということだ。

後世の人間はこれを肉体を伴った復活だとか、実は生きていたんだとか様々「物質的な」解釈をする。

これは霊体が人の形を持って顕れたということだ。弟子達の前に「生前の」姿を伴って顕れた。

「私の言葉を信ぜよ!」

そういうことだろう。悲劇の死は悲劇ではないのだと。私は神と共にあるのだと。

人の心も碌に読めぬ我々凡人が、まして神の真意をや。

我々日本人も日々様々な神々と関わっている。

まるで真意の見えぬ「神々」などという存在と関わることに意味があるのか。人は思う。

意味があるのである。

それが魂魄の人の性であり、それなくば生きとし生けるものに列することができないということである。

しかし、このことは我々凡夫には難しい話ではある。難しいからただ手を合わせ祝詞を唱えておればよい。

神恩感謝 国土安穏 と

神も仏もあるものか

よく大して信心もない人間が、ちょっと神頼みしてうまく行かないからといってこういう言葉を吐くことがある。

神様御先祖様が災いなどするはずがない、とか。

しかし、人間も神霊も人霊も大して変わらない。

親父に金借りに行って、いきなり「金かしてくれよ」と言ったら多分親父はキレる。

親父が機嫌の悪いときに顔だして、あれくれこれくれと言っても碌なことはないだろう。

それと同じことである。

人霊は人間と大して変わらないところも多い。人も神もいろいろと都合がある。

神霊だって器の大小があるだろう。災いが怒りによるものか、愛情から来ているのかは人間には理解できないこともある。

親父や母親が子供に怒り狂った真意を何十年も経ってから子供が理解できることがある。

それと同じことだ。

人間諦めたらそこまでだ、とよく言う。

神も仏もあるものか、という言葉もそれと同じことだ。

こういう言葉を吐く人は人の心もわからない。

孔子曰く、人は死ぬと神(魂)は天に昇り、鬼(魄)は地に降る。平将門のように、怨霊は人を困らせるが、同時に人や土地を守護する。これは魂魄ということだ。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

日本人はハワイの歴史についてしっかりと学ぶ必要がある。ハワイとフィリピンの歴史は日本人として義務教育で学ぶ必要があると私は思っている。