朝鮮半島の動向と日本史・天皇・国体

日本史上、海外の脅威に際して、大きな事績を残した歴代天皇は、言うまでもなくまず明治天皇があるが、今一つ大きな事績を見るならば、大化の改新後における天智天皇がある。

このいずれもが、朝鮮半島の動向と密接な関わりがある。

天智天皇の時代、白村江で大敗を喫し、半島における拠点を失った大和朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え、対馬から近畿地方にいたる道筋に堅固な要塞を築き半島からの侵略に備えると共に、近江への遷都を行った。

近江遷都は、西から侵攻してくる唐・新羅軍が仮に近畿地域まで進出してきても、京都の東山が大きな壁となり、背後には琵琶湖があるから、いざとなれば船で琵琶湖を渡り東方面への移動が容易である。近江遷都というのは当時の国家的緊急事態を示している。

さらに中国の律令制度を採り入れ、法整備を固めて、官僚制度の構築し、国家としての権力基盤を強固なものとした。

明治と違うのは、天智天皇は白村江に敗れて対外的には劣勢にたたされた。明治は逆に西洋列強、主にロシアからの動きの先手を打つ形で朝鮮半島に手を入れたのである。

危機の度合いから言えば、唐・新羅からの侵攻よりは、露英仏独米等の西洋列強からの侵攻と圧迫を受けた明治期の方がはるかに大きかったであろうけれども。

日本という国家が大きく動く際には必ず半島の動向が密接に絡んでいる。

これは好むと好まざるとに関わらぬ日本の地政学的宿命であろう。

今まさに同じような状況にある半島情勢。

この時点での天皇の譲位御決断というものも天皇御自身の発意ということではあるものの、本質的には、より大きな意志がそこに関わっている可能性もあるのではないか。

昭和50年代の中頃くらいまで、半島の38度線は非常に緊迫した状況があった。当時頻繁に南北の電話会談や板門店での南北閣僚会議などがあったが、今と全く同じ。話が上手くいくような雰囲気を見せるが、すぐにちゃぶ台をひっくり返す。

当時、子供心にも、こんな茶番をいつまで繰り返すのかと思ったものだ。今も何ら変わらない。学習能力がないのか。そもそも茶番と分かってのことか。

どう考えても、話で半島問題が望み通り解決するなどということがあり得るようには思えない。

北朝鮮の権力の完全なる保存保持保障。これがどこまでも絶対条件なんだから。核兵器廃絶の可能性もパフォーマンスに過ぎないだろう。核を完全放棄すれば今の政権の首は絞められることに疑いがない。

韓国は現政権が北朝鮮と通じているだろうが、中国と結託して半島を統一する方向付けができればいつでも北を裏切るに違いない。一方中国が北を本気で信頼するとも思えない。

米中の半島における駆け引きが最大の焦点だが、この場合、半島問題は台湾問題とセットで話し合われることになるのは間違いない。バーター取引があるのかどうかだが、中国は絶対に引かないだろう。そうなると米国は損失だけで益がない。

相変わらず先が見えない。不透明な状況には違いない。厄介な土地である。

北朝鮮が何等かの理由で自壊したとしても簡単に半島が統一に向かうかどうかは米中の出方次第。いずれにしても米が半島から手を引けば中国寄りで半島は統一。これは現在の韓国政府の思惑でもあろう。

半島における米中パワーバランスの最終的な落ち着きどころがどうなるかということと東アジアの今後の動向は密接に絡むが、その流れで日本という国家の立ち位置がどのようなものであるべきかを日本人として模索、検討していく必要がある。

これは日本の国家も個人も企業にも関わる大きな問題になるだろう。

国体、国柄。そういうこととも密接な関わりがあるが、まだそこまでの意識が日本人自身に芽生えていない。

次の御代への移行前後。そして東京オリンピック以降。日本の本質に関わる部分での既存の価値観の崩壊現象のようなことが今以上に続々と起こるだろう。

良いことも起こるし、悲劇的なことも起こる。極端なことが同時並行的に噴き出す。そういうことになってくると思われる。

しかし、それは産みの苦しみと見たいところである。

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肉体を超えた意識感情世界に人が直接関わるということの意味

霊的体質という人がいる。しばしば、ある種の美形の女性などは霊的体質であることがある。

そういう人は霊的世界に関わる仕事をするのが良いと思いたくもなるが、そうとも言えない。

恨みを抱きやすい人、何かを根に持つタイプの人がそういうことに関わると悪魔使いのようになる可能性が高い。

霊的な世界というものは、通常の数倍以上にネガティブな感情に影響されやすい世界でもある。霊的体質の人がそういう世界に関われば当然、さらにその度合いが増すことになるだろう。

そのような負の感情世界に影響を受けやすい体質である以上、そのような世界にはむしろ関わらないほうがよいということになる。

相当に純粋さを保ちうる人でもなかなか困難な世界だ。

肉体を超えた世界というのは、要するに感情や意識だけで構成された世界だから。感情や意識に制限の幅がない。

肉体を伴っていれば、人間は肉体を保つために感情を抑制したり、妥協したりしなければならない。肉体がなければそれらは必要なくなる。だからプラスにもマイナスにも無限に増幅可能ということだ。

霊的な世界というのはそういう世界である。

当然ながらプラスの世界は神の世界なんだろうけれども。

人間が「正」「聖」の世界に直結するのはなかなか難しい。

俗に修行とか何とかそういう鍛錬の世界があるけれども。

人が神と直接関わる、接するためには、それなりに相当な意識感情の抑制力や方向付けが必要であるということだ。

「神」と関わる、というと特定の宗教的先入観があるかもしれないが、別の言い方を試みるならば、人間よりもより卓越した意識体とでも言うべきか。

ただし、我々凡夫は、ひたすらそこに思いを向けるだけで良いのである。
霊的体質でない人は難しく考える必要はない。

キリストの愛の正体を検証する

人はなにがしか背負って生きているものだ。多くは家族を背負っている。

世に言う成功者というのは、それ以上の多くを背負って生きている人のことだ。

何を背負っているのか?

それは大きくは人の思いの蓄積のようなものだ。

そういうものが特定の人間に集中することがある。

そのわかりやすいものの究極の一人がキリストであろう。

今では全ての人類の思いを背負い彼自らが一人犠牲となり神に召されたんだということになっている。

しかし本来はユダヤ人の思いを彼は背負ったということだろう。

ユダヤ人たちは彼を救世主だと信じたが、キリストの存在は彼らが期待したものとは違った。

ユダヤ人たちは、ローマ人のくびきからユダヤの民を解放してくれる「物理的救世主」であることを期待したが、彼はそういう人物ではなかった。

それを知った時、ユダヤの民は彼を「売った」のであった。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

彼は死の直前にそう呟いた。

彼は神には見捨てられてはいなかっただろうが、結局彼自身が全てを背負ったはずのユダヤ人たちからは見捨てられたのは皮肉な話である。

彼を見捨てなかったのは、彼を葬ったはずのローマ人たちであった。

ローマ人の手によって彼は「人類の思いを全て背負い神に召されし犠牲者」ということにされた。

人類の皮肉か。

「我が神よ なぜあなたは私を見捨てたのか」

確かに彼はある意味見捨てられたのである。

彼が思う神とは、ユダヤの神であったはずだからだ。

それはしかし、

結局ユダヤの神ではなかったのかもしもしれない。

捨てる神あれば拾う神あり

神に請われて多くを背負いし者

人の思いは生死に関わらない。思いに生き死には関係ないのである。

そんな厄介なものは背負わないが楽に決まっている。

その通りだ。多くを背負わされたものほどそう思うに違いない。

人の欲望を背負うことほど面倒で無意味なものはないだろう。

他人の欲望というものは誰のためにもならない下らないものだ。

しかし多くを背負う者は生まれながらに背負いし者だろう。宿命的に背負っている。

だから受け止めていくしかない。

逃げるとひどいことになる。

そういう思いを受け止めて生きて行くことを、キリストは「愛」と呼んだのである。

キリストの愛とはそういうことだ。

私はキリスト教信者ではないがイエスキリストの歴史というものを見て行くとこういうことになる。

そういうところはみていかないといけないと思っている。