先日、知人とある居酒屋で飲んでいた。店内…
自覚なきノンポリ左翼 元号の価値すら知らぬ日本の若者
先日、ある男と話をしていた。30代の後半くらいか。
話は改元の話になった。
「元号とか使い勝手が悪くて混乱をきたすから廃止してもいいんじゃないですかね。退位で天皇が変わるのを機に考えてみるべきだ」
みたいなことをさらっと言う。別に彼は左翼でもなく、政治的信条があるわけでもない。
聞きはしなかったが、彼の政治信条を聞いたとしたら多分。
「まあどちらかと言えば、保守ですよ」
と言うだろう。
私から言わせれば、保守というか、もはやこういうのは日本人ではない。
というか、彼ら自身は自覚すらないが、もう日本人としてのアイデンティティーを喪失している。
元号なんかどうでもいい。西暦があればいいじゃないか。
そういう考え方が西洋文明に取り込まれることになっていることにすら気づかない。もちろん西暦は便宜的に使うわけだけれども。
こういう「人種」は、日本がアメリカの属国になろうが、中国の一部になろうが、朝鮮人に支配権を奪われようが何とも思わないだろう。
なぜなら、失うものが何もないからだ。
仮にこういう人間が、「右傾化」した場合、極端な排外主義、あるいはある種のヘイト主義みたいな形になる。そういう形でしか、自分が日本人であるという自覚を得ることができないからである。
最近の日本人によるモンゴル人力士叩き。こういう卑屈さも、アイデンティティーが確立していない人間が自国愛にこだわると起きる現象の一例である。
自国に確たる文明が存在しない地域や民族、国家はこういう形でしか自己認識できない。日本人はそうではないのだが、戦後の教育の影響であろう。日本人にもそういう連中が増えていると私は思っている。
ネトウヨとか言われる連中のかなりの部分がこういう類だと私は思っている。ネトウヨにならなければ、ネイチャリストみたいになるんだろうけど。そういうのは団塊の世代などに多い。
ネイチャリストにも文明観が喪失している場合が多い。こういう場合もどの国に占領されようが支配されようが乗っ取られようが関係ない、という感覚になる可能性が高いだろう。
私のことをネット右翼だと思っている人がいるかもしれないが、全く違う。
私から見れば、ネット右翼の大半はアイデンティティーを喪失した「歪んだ愛国者」であり、私は排外主義ではないから。
排外主義の話をしようと思ったわけではない。
今の若者のかなりの部分が「ノンポリ左翼」だという話である。こういう人間がこの国にどんどん増えてゆけば、この国が誰に支配されようが、天皇や元号がなくなろうが、日本文明が消えてなくなろうが、何も感じないんだろう。
そう思うと多少暗澹とするが、教育とは恐ろしいものだと改めて思う。
三島由紀夫が遺書的文書「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」の中で予言したように、
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」
この予言はもはや実現しているが、しかし「完全実現」させてはならない。
日本人であることはどういうことか。
こういうことを天皇陛下の譲位を機に多くの日本人が考えることが必要だ。
みそぎはらへ 二九十二四 対馬 多久頭魂神社 対馬天道信仰の霊場
天道信仰は、言葉自体は中国から来たものらしく、人の運命は天地によって決められているという運命論的な思想だったが、日本に入り太陽信仰や山岳信仰と習合して独自のものになったようだ。
山形県の天童市が発祥とも言われているが、地域によって意味あいが異なっている。
対馬の天道信仰は、母子信仰、山岳信仰が習合したもので、母神を山麓に祀り、子神を山上に祀る信仰。本来対馬には、太陽光が女性の陰部に差し込み受胎し子を産むという神話があったという。
マリアの受胎のようでもあるが、太陽神が人間に受胎して子を産むという、ある種の天孫降臨神話に近いものだろう。
また壱岐対馬には壱岐が月神、対馬が日神であるという考え方も存在しているようで、壱岐のいくつもの神社の鳥居に日月のシンボルを見ることができる。
通常は、母神が山上、子神が山麓。という感じで捉えがちだが、子神が山上というのは、太陽神の魂が女性に宿ったからということであろうと思われる。
多久頭魂神社は、そのような対馬固有の信仰による神社で、本来は社殿はなく、天道山(竜良山)を御神体とした神社で、江戸期は密教、修験と習合していた。オリジナルの祭神は多久頭魂神(たくづだま)である。
この神社は、車で行かないと行けない山深いというか、非常に人里から縁遠い場所にある。近隣に畑が見えるが、人家あるいは集落まではかなりの距離がある。
日本の原風景を思わせる神社で山の尾根のような場所の森の中にいくつもの鳥居が立ち並び、三つほどの社殿が段々に鎮座している。
神域というに相応しい秘所を感じさせる空間である。
この神社は島の南端に近い場所にあるが、北端にも天神多久頭魂神社がある。私はこの神社には行けなかったが、写真を見るとかなり雰囲気のある場所で、こちらの神社は磐座のみで社殿はないようである。
ネットで写真を見たのだが、ここは行きたかった。以下に写真のリンクを掲載しておく。
https://goo.gl/images/B2DSmP
掲載している写真は全て、島南端の多久頭魂神社より。一番最後の写真のみ壱岐一ノ宮天手長男神社鳥居にあった日月のシンボル。
みそぎはらへ 二九十二一 壱岐 瀬戸浦 龍蛇神神社
この祠は、壱岐護国神社の鎮座する瀬戸浦にある。護国神社は岬の小高い山の上にあり、龍蛇神神社はその下の波打際の岩の上に鎮座している。
瀬戸浦は元寇 弘安の役の激戦地。壱岐の防衛にあたった少弐氏他将兵はこの地で討死した。
その魂を鎮めるように
御霊の苦しみを海風が吹き流すように
ここは清々しい
釜山港に入港した途端、この街の大きさに拍…
下記の動画で語られていることはここ最近の…
みそぎはらへ 二九十一二八 対馬 太祝詞神社
古事記にて天照大御神が岩戸隠れされた時、天児屋根命が「布刀詔戸言」(ふとのりとごと)を読んだ。
これが祝詞の初出であるといわれている。
対馬の太祝詞神社は森の中に静かに鎮座している。対馬の神社には鳥居が多くある。この神社にも短い参道に何本もの鳥居が建っている。
この神社は対馬では比較的名の知れた神社であるが、宮司はおらず社務所はなく、由緒の案内板もないという風で、森の中に忘れられたようにひっそり佇んでいるのである。
車でなくては訪れることが難しい神社の一つ。
祭神は天児屋根命、雷大臣命であると言うが、雷大臣命は天児屋根命の子孫で神功皇后の三韓征伐に従い、三韓まで行ったという。
その後、子の真根子は壱岐島に留まって、その子孫が壱岐氏、卜部氏、中臣氏を称したという。
それに因んだ神社ということか。裏山に雷大臣命の墳墓があるとも。
みそぎはらへ 二九十一二七 海外での最古社 釜山 龍頭山神社
海外で最も創建の古い神社は、延宝七年(1679年)、江戸時代に対馬藩によって、釜山に創祀された龍頭山神社である。徳川五代将軍綱吉の頃である。
当時、朝鮮貿易を行っていた対馬藩は釜山に「倭館」と呼ばれる日本人居留地を設けていた。
この館内に航海の安全を祈願して金毘羅神を祀っていたのが、龍頭山神社。
日韓併合後に、日本の神々をさらに祀り、国幣小社となった。祭神について、当時の神社界からは、朝鮮の祖神を祀るべしとの意見もあったが、結局それはなかった。
少なくとも、朝鮮の祖神を併祀すべきだったと私は思うし、そうするのが神道的には常識的な発想と思うのだが。西郷隆盛や伊藤博文ならそうすべきと言っていた気がする。
李舜臣でもお祀りしていれば戦後も何がしかの参拝施設として残った気がする。こういった発想が戦前期の問題点かもしれない。今現在のような異常な反日というのも少なかったのではないか。結局感情的な問題に過ぎないのだから。
写真は、ネット上から拾った戦前の絵葉書写真。
1930年(昭和5年)の写真では、入り口の大鳥居はないから、昭和十年代くらいに建てられたものだと思われる。
戦後、完全に破壊され、今は公園となり、李舜臣の巨大な像があるが、忠烈祀前にある銅像には、兜のてっぺんにあった、天の逆鉾のようなオブジェは存在しないことから、この「逆鉾」の史実性は薄いようだ。最後の写真は1957年(昭和32年)当時のもの。
戦前の光景を映し出すものもある。朝のラジオ体操(早起会?)のような光景。子供たちの参拝姿など平和な雰囲気である。
白村江以前には半島にも神社はあったかもしれないが、わかっている中での最古社ということになるのだろう。
そうなったからと言ってアメリカにとって本…
みそぎはらへ 二九十一二三
日本のポープは天皇陛下 新嘗祭にあたって
今日は新嘗祭である。新穀を神々に捧げ、天皇はこれを神々と共に食す。天皇と神々が食物を媒介として一体化し、日本の国土に居住する人々もまたその時間を共有する儀式であり、日本固有のものだ。
日本には民族を統合することのできるアイデンティティーが存在する。
多くの国や地域や民族にはそのようなものが存在しないところもある。
西洋人の押し付けで民主主義やキリスト教的価値観を植え付けられ、それを西洋人は「進化している」と喜んでいるが、世界を見渡してみて思うに、それが実を結んでいるところは少ない。
アラブ世界はかつては自由に旅行したり海外との交流や経済活動もそれなりに行えた国が多く存在したが、「アラブの春」とか言う、西洋人の大喜びした「価値ある」変動の挙句、ほとんどの地域で政情不安に陥り、まともに旅行できる国はわずかになってしまった。
オリジナルのキリスト教圏以外の国や地域でキリスト教が普及した国の大半は政情不安で内政も経済活動もグダグダで不安定である。フィリピンや南米、中南米が典型だけれど。フィリピンは近年ようやく自国の本来のアイデンティティーを蘇らせようという動きを感じるものの、それ以外の大半の国々は相変わらずである。
その国や地域にはそこに暮らす人々や民族が必要とする価値観というものが存在する。こういうところに、特定の民族や文明の価値観を上塗りし、本来のオリジナルなアイデンティティを破壊してしまえば、そこに暮らす人々の意識、精神、魂が不安定化するのはあたりまえのことだ。
こういう地域や国家は個々のポテンシャルが高くても国家や民族としての力はなくなってゆく。
それはこのおよそ200-300年の世界史が証明している。
キリスト教を信仰するということは、例えばカトリックなどの場合、ほぼ完全に白人が支配する組織であり、当然本部はイタリアのローマバチカンにある。
結局、白人の司教やら教皇を敬愛、崇拝することになる。こういうロジックに気づかず国家として、キリスト教を受け入れてしまう非白人国家というのは、私から見れば悲劇でしかない。
白人を崇拝する、という言い方が過激すぎるとすると、西洋文明を崇拝する。と言い換えてもいいかもしれない。
私はキリスト教を批判するつもりもないし、嫌いでもない。白人嫌いでもないし、反西洋でももちろんない。むしろ彼らの賢明さに尊敬の念すら抱いている。
私たちは日本人である。日本には日本固有のアイデンティティーが存在する。それは、神々の住まうこの世界と、その世界の祭祀王である天皇の存在である。
キリスト教やイスラム教やヒンズー教や仏教、儒教を信仰しても構わないが、日本人であればまず第一にこのことをしっかりと心に留めおく必要があり、この日本という国の恩恵を受け、この国に暮らす者として、日本人でなかったとしても、この国の、日本文明の成り立ちというものへの理解と許容が必要であろう。
日本文明にとっての「ポープ」は天皇であって、ローマ教皇ではない。
