古代朝鮮半島を勢力図で見てみる
1枚目は紀元前1世紀頃の勢力図。この図は昨日もアップしたが、1-4世紀ではなく紀元前1世紀のものであった。これを見れば明らかなようにこの時期はまだ朝鮮半島にオリジナルの国家は存在していない。
半島の大半は漢(前漢)帝国の一部、日本人によく知られたところでは「楽浪郡」などの「郡」地域となっていた。
東南部の「韓」というエリアは日本列島の日本海側に拠点を置いていた出雲系種族と同根又は同一族の居住地域ではないか。
この図を見る限り、それ以外の可能性は極めて低い。
素戔嗚命が韓土を往復しこの地を経営したという事績は日本海側及び北九州、対馬などの神社に多く存在する。
スサノオの時代ははっきりしないがスサノオはこれよりもう少し後かもしれない。しかし、この時期にも同じようなことがあったのは間違いない。
スサノオの息子の五十猛命もまた渡韓の伝承が数多くある。
北九州系種族も関わっていたかもしれないが神社等の事績を見る限り出雲系の方が古いだろう。
2枚目の図は2世紀頃の図。この時期になると満州地域からの勢力の侵入があったようだ。
渤海使は7-8世紀頃だが、東北には大陸からの渡来民の伝承があり、この時期にも半島よりも北側の今のロシア領あたりからの海上交通があったかどうか。
三韓の諸国家群が成立している。この時期が素戔嗚命の活動時期かもれない。
白山信仰は白頭山に関わるらしいがこの時期の動静に関わる神であろうか。
3枚目は4世紀頃の図。この頃になりようやく今の朝鮮半島の国家の基礎ができたようだ。
この後しだいに新興の巨大国家「唐」に半島が圧迫され、半島南東部を大和朝廷が守護あるいは共同防衛という形で守ろうとしたものの最終的に白村江で敗れて半島の拠点を失うことになる。
これが663年10月。7世紀のことだ。
紀元前1世紀の図を見れば明らかなように、この時期の古代において朝鮮半島にはオリジナルの国家はまだ存在せず、半島の大半は漢帝国の領域であり、日本の出雲族系の居住地域があったのであろうと思われる。
(写真はwikiより)
みそぎはらへ 二九十一二十 ウガヤフキアエズ生誕地 対馬 住吉神社
ウガヤフキアエズの生誕地と言われるのは、宮崎県の鵜戸神宮が一般的だが、ここ以外にも鹿児島県大隅半島などにも伝承地がある。
対馬美津島の住吉神社にもウガヤフキアエズ生誕伝承がある。
由緒によれば、当社創建は神武天皇の御代。
「この時、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を祀り、津口和多女御子神社と云ふ。彦火火出見命、豊玉彦の姫、豊玉姫を娶り、三年。懐妊の身となり産室をこの地に造らしめ給ふ。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊誕生抱育の古趾なり。
神功皇后三韓征伐の折、海神を斎き祀りしより住吉神社と云ひしなり。」
と書かれてある。
生誕地がここというのは怪しいと感じたが、居所があったかもしれない。
とにかく、美しい場所であるというにつきる。
欧州人が感じた日本と韓国
先の文章を書いたのちに思い出したことがある。
日本の神道を絶賛するあるフランス人が書いた書籍に、このような記述があった。
「西洋人の私として感じるのは、日本よりも韓国の方が分かりやすい。違和感が少ない。正直日本のことは理解できないことが多い。」
日本を絶賛している人がこのように言っているということ。
また私の知人で北欧系の人と話をしていた時も、
「韓国は日本に比べればヨーロッパみたいだ」
と言っていたのを思い出した。
これは本日書いた文章の補足
朝鮮半島と神道と素戔嗚のこと
釜山に、秀吉の朝鮮出兵時の朝鮮将兵を祀る忠烈祠がある。本殿を少し下ったところには将兵に混じって戦った商人だか農民だか町人だかを祀るお堂もある。
ここはデートスポットのようになっているらしく、若い二人連れが多い。学生の修学旅行のコースにもなっているらしく、大声でまくしたてる女性の案内に連れられている学生らしき団体の姿も目にする。
私は本殿などで鎮魂の参拝をしていた。もちろん日本式にだ。
ここへ来るまでは、この地には多くの参拝者がいて、朝鮮式の祈りを捧げているものと思った。しかし、祈りを捧げているものは私だけである。奇妙であった。
みな、本堂やら他の建物を興味深そうに、解説の案内版を見て、本堂内を覗き込みはするものの、誰も祈りを捧げるものがいない。なんだか拍子抜けするほどであり、寂しげな気さえする。定期的に祭儀が行われているらしくそういう時は違うんだろうけれども。
日本では地方の護国神社には人が少ないが、靖国神社には多くの参拝者がいて、みな祈りを捧げている。豊臣秀吉ゆかりの、名古屋の豊国神社にも参拝者がいる。しかし、ここで祈りを捧げるものはいないのか。
祭儀の時以外の、普段の姿こそが真の姿を現す。
こんなものかと。こういうものを見るにつけ、彼らの「アイデンティティー」の希薄さを感じるのである。こんな場所に来ても、なぜか他人行儀な空気感が漂う。
どこを歩いても、人々が土地を背負っている感覚がない。その土地に人の魂が根付いているという感覚が伝わってこない。
この空気感は、奇妙なことに、どちらかというと東部ヨーロッパ地域のどこかの国にいるような感覚に近い。もっとも欧米人にはキリスト教やそれ以前の多神教文明の痕跡があるけれども。
どんな土地へ行っても、ある個人がなにがしかと繋がっているということはあるのだろう。しかし、ここには人と土地と自然と先祖の魂やそれを支える神々の繋がっている気配というものはない。それがなぜか、欧州の東部地域を巡った時の感覚を思い出す。
上手く言えないが。何か濃密さが足りない。薄く、はかない感覚。その寂しさが旅行者としては何か旅愁のようなものを誘うということはあるかもしれないが。
同じ欧州でもイタリア、フランスなどはまた全く違う。西洋文明の原点に近い地域だからだろう。
韓国は日本文明の源という感覚は全くなく、むしろその辺境の匂いすら薄い、ということかもしれない。
話を戻す。
素戔嗚命が朝鮮半島から来たとか、天皇家や神道が朝鮮由来だとかの書籍をよく目にするし、近年ではかなり多くの日本人がそう考えているような気がする。
半島の南東部に前方後円墳があるから、これは半島由来だとか。
ここ数年、さまざまな書籍が出て、戦後隆盛を極めた、日本古代史の「朝鮮由来史観」を否定するものが出ている。私も日本国を自分自身で足を運び、各地を巡る中で、日本古代史の朝鮮由来史観はあり得ないと感じ、またそのように書いてもきた。
やはりそう思う。
素戔嗚を始め、日本の出雲あるいは北九州地方を拠点とする部族は、古代において、日本海を挟んだ両端に居住しており、交通があった。どちらかと言えば、朝鮮由来ではなく、日本由来である。
前方後円墳が半島南東部にある。だから古代氏族や天皇家の多くは半島由来だ。ではなく、半島南東部にも古代日本人の拠点があったからそこに前方後円墳があった。
前方後円墳が半島由来ならば、ソウルやピョンヤンあたりにも、朝鮮の古代王族の墳墓として前方後円墳がなければならない。それならば、由来説は有力説と言えるだろう。
三韓は日本由来かもしれない。出雲族の分岐種族かもしれない。そのようにすら感じる。
当時の朝鮮半島は、北半分は当時の中国領、漢だか唐だかの。三韓は半島の南半分にしか勢力圏がなかった。ちょうど今の韓国と同じ領域に相当するわけだが。
神道が半島由来なら、鳥居の一本でも残っているべきだろう。日本統治が終わった時、そのようなものは全て破壊されたんだろけれど。それが、彼ら由来のものならば、完全に破壊する必要はない。一本くらいは残っていて不思議ではない。朝鮮出兵時に釜山で作った毛利輝元の石垣は残っているくらいなのだから。鳥居は何故ないのか。
もともとないから、彼らの魂に何も響かない。全て壊しても何も感じない。そういうことだ。魂の奥深くにでも、無意識にでも、それが根付いていれば必ず何かを残すはず。
日本が拠点とした半島南部は、白村江の戦いをもって終了し、秀吉の時代に侵入したが、実質明治期まで疎遠となる。
白村江から明治期までの期間に朝鮮半島に起こったことを知れば、この地域が今現在どういう場所なのかが明らかになるだろう。この間に日本文明の痕跡もそれを受け継ぐ者の魂もほぼ消失した。
明治以降30数年間日本が統治したが日本文明がこの地に根付くことはほとんどなかった。
忠烈祠の入口にある忠烈の銅像の兜の天辺に天の逆鉾のようなものが付いていたのだがそれが唯一繋がりを感じたものかもしれない。
対馬が日本文明の境界線であることは明白であり、古事記にも大八洲の一島として数えられていることを思えば、この土地は日本人にとって絶対に守っていかなければならない場所であることは言うまでもない。
我々日本人はもっと日本を大切に思う心を持たねばならない。
みそぎはらへ 二九十一十九 対馬 海沿いや小島に建つ無数の鳥居
車で走っていると、入り組んだ湾内のいたるところに丸い小島が浮かんでおり、大概は鳥居が建っている。
小島ではないが鳥居が海に面しており、船でないといけないような神社もある。
神社名も祭神も何もわからない。
しかし人が近寄れない分、神聖さを感じる。
1枚目の写真の鳥居はかなり大きなもの(というか普通のサイズ)。両脇の灯篭が大きいので大きさの尺度がわかりづらい。対馬壱岐の神社は灯篭が非常に大きなものがある。
壱岐にある神社の灯篭は特にそうで大概は鳥居くらいの高さである。
壱岐対馬を歩いていると日本の原風景を見る思い。
神々と人間と自然とが仲良く共存する風景。何も意図しない自然体。土地を守護し静かに見守る神々。
日本中巡っているが、ここまで変わらぬ風景を保っている場所にはあまり出くわさない。
まさに手付かずのままの日本がそこにはある。
みそぎはらへ 二九十一十八 素戔嗚の匂い漂う対馬最北の地
対馬の北端は入江のように小島や岬が無数にあり、それらには鳥居があって、神域のようになっている場所が無数にある。
歩いていけない場所もある。干潮時にしか歩けない汀を歩いてようやくたどり着くようなお社や神域もある。
島大國魂神社は、目立った神社としては最北端にある神社だが、岬の先端にあり干潮時は海沿いを歩いて行けるが満潮時は道がなく辿り着けない。
自分が行った時はちょうど満潮時で近づくこともできず見ることもできなかったが、港に沿ったところに付近では一番大きな、那祖師神社がある。
ここは付近関連の三社をお祀りしているようで拝殿の額には、那祖師神社、若宮神社、島大國魂神社の三社の名前が記されている。
那祖師神社
祭神 素戔嗚命 曽尸茂梨(そしもり)
由緒書きの素戔嗚に関する記載には、
尊が出雲より、その当時同国より親しみありし韓国の東南部三韓御経営のため往復遊ばし。渡韓の要衝である対馬には尊ならびに若宮姫を祀る神社は六十八座あり、出雲の十六座より相当多いことが分かる。
若宮神社
祭神 五十猛命
素戔嗚の長男で共に韓国に渡った後、晩年は和歌山に鎮まった。紀伊國一之宮伊太祁曽神社の祭神でもある。
島大國魂神社
祭神 天ノ狭手依比賣 素戔嗚命
天ノ狭手依比賣は、古事記によれば有史以前、対馬最初の国司であり女神であるという。
対馬北端には素戔嗚に関する神社が多いようだ。今回行かなかったが戻って後調べたところ他にも以下のような神社事績もある。
岩楯神社
祭神 素盞嗚命、五十猛命、蛭子命
「往昔、素盞嗚尊が韓土より帰り玉ふ時、此の浦に御船を寄せ玉ひしと云ふ。依って後年に至り神徳を仰ぎ祀る所なり。」
みそぎはらへ 二九十一十六
対馬 和多都美神社 三ツ鳥居 豊玉姫墳墓
神殿前の湾内から五つほどの鳥居が連なり美しい光景を見せる。干潮時には厳島神社のように海上の鳥居まで足を運ぶことができる。
対馬国一之宮 海神神社も元和多都美神社という説があるがどちらが古いのか分からない。
海神神社が豊玉姫のみを主祭神とするのに対して、当神社は彦火々出見命、豊玉姫命の夫婦神を主祭神としている。
由緒によれば、豊玉姫の父神、豊玉彦がここに宮殿を営み海宮とし、地名を夫姫(おとひめ)としたのだという。
社殿背後は夫姫山といい、社殿後方に大岩があり、ここに豊玉姫の墳墓があり、さらに西の山下に豊玉彦の墳墓があるという。
彦火々出見(山幸彦)が釣針をなくして、当地にやってきておよそ三年この宮で過ごし、豊玉姫を娶ったという。
まさに神話上の故地ということになる。
神殿の脇及び神殿前の池には三ツ鳥居がある。
これは卜部氏と関係があるのか。
対馬国一之宮海神神社は伊豆山に鎮座することから卜部氏との関係が強いものと思うが、当社もその影響あるということか。
みそぎはらへ 二九十一十五 対馬 安徳天皇稜
対馬に安徳天皇生存伝説と天皇陵がある。
安徳天皇生存伝説というのはいくつかあるが最も信憑性が高いのは宇佐八幡神主家の宇佐氏家伝安徳天皇すり替えの話であろう。
これについては宇佐氏神主家が書籍を出している。
今回対馬を車で走っていたら、「安徳天皇稜」と言う立て看板が道路脇にあったので不思議に思い訪れてみた。
車が一台ようやく通れるほどの道があるものの、ほとんど人が訪れることがないであろう農道のような、林道のような山道を山の上まで上がること5ー6分。
道が行き止まりになって小さな駐車スペースが設けられていた。
そこに詳しい案内板がある。以下、
対馬の中世史は宗氏の入国に始まる。宗氏の出自は諸説あるが、ここ久根田舎の住民は古くからこの土地の字名は全て安徳天皇にちなんだものと伝えられているという。
そして村人はみな宗氏を安徳帝の直系だと信じているのだという。
説によれば、壇ノ浦合戦の際、従臣斎藤為持が帝を抱き筑紫に逃れた。筑紫の少弐資頼が鎮西守護となり密かに天皇を奉じると、帝は島津氏の女を娶り、二子をもうけられた。これが初代宗重尚、二代助國であるという。
寛元四年、宗氏が対馬を領すると筑紫吉井から安徳帝を迎え、この地に御所を設けた。建長三年(1251年)四月十五日、七十四歳で崩御という。
当山付近は、御所があったところで、陵墓は末広がりになっており、納言殿塚、重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚犬塚などの古墳があるという。
安徳天皇稜とされるところには宮内庁の案内板があり、「佐須陵墓参考地」となっており、単なる伝説の域を超えた何らかの信憑性を感じさせるものである。
みそぎはらへ 二九十一十四 対馬国一之宮 海神神社
祭神の豊玉姫は大綿津見神の娘で神武天皇の祖母にあたる。博多の志賀島海神社から対馬國一之宮である当神社に至るまでの海路上に大綿津見神に関わる神社が並ぶ。
主に綿津見神、住吉神系の神社が、九州から対馬に至る航路上に国家鎮護の守護神社として鎮座していることは明白である。
由緒によれば、延喜式明神大社和多都美神社に比定されており、神功皇后の旗八流が納められた所であり八幡本宮として対馬国一之宮と称す。
また、この神社は伊豆山という山にあり、伊豆(稜威、巌)とは、神霊を斎き祀ることを意味するのだと書かれている。
伊豆とはそういう意味だったのか。
伊豆壱岐対馬は共に卜部氏に関わる土地。しかし、壱岐対馬共に伊豆と縁が深いというのは非常に不思議で興味深いことである。
多くの神社を巡って来たが、社地及び神社が鎮座する周辺の環境を含めたところまで見て、この神社は極めて印象深い。
周辺には人の気配が極めて少なく神が宿るに優れている。周辺の土地が荒れないように自分で土地を購入したいほどである。
神社境内地正面にある海までの風景は自分の神社史に残るほど美しい。
対馬にはそういう神社がいくつかあったが、その一つがこの神社であった。
この20年日本で起きたことで一番大きなこ…
