みそぎはらへ 二九十一二八 対馬 太祝詞神社
古事記にて天照大御神が岩戸隠れされた時、天児屋根命が「布刀詔戸言」(ふとのりとごと)を読んだ。
これが祝詞の初出であるといわれている。
対馬の太祝詞神社は森の中に静かに鎮座している。対馬の神社には鳥居が多くある。この神社にも短い参道に何本もの鳥居が建っている。
この神社は対馬では比較的名の知れた神社であるが、宮司はおらず社務所はなく、由緒の案内板もないという風で、森の中に忘れられたようにひっそり佇んでいるのである。
車でなくては訪れることが難しい神社の一つ。
祭神は天児屋根命、雷大臣命であると言うが、雷大臣命は天児屋根命の子孫で神功皇后の三韓征伐に従い、三韓まで行ったという。
その後、子の真根子は壱岐島に留まって、その子孫が壱岐氏、卜部氏、中臣氏を称したという。
それに因んだ神社ということか。裏山に雷大臣命の墳墓があるとも。
みそぎはらへ 二九十一二七 海外での最古社 釜山 龍頭山神社
海外で最も創建の古い神社は、延宝七年(1679年)、江戸時代に対馬藩によって、釜山に創祀された龍頭山神社である。徳川五代将軍綱吉の頃である。
当時、朝鮮貿易を行っていた対馬藩は釜山に「倭館」と呼ばれる日本人居留地を設けていた。
この館内に航海の安全を祈願して金毘羅神を祀っていたのが、龍頭山神社。
日韓併合後に、日本の神々をさらに祀り、国幣小社となった。祭神について、当時の神社界からは、朝鮮の祖神を祀るべしとの意見もあったが、結局それはなかった。
少なくとも、朝鮮の祖神を併祀すべきだったと私は思うし、そうするのが神道的には常識的な発想と思うのだが。西郷隆盛や伊藤博文ならそうすべきと言っていた気がする。
李舜臣でもお祀りしていれば戦後も何がしかの参拝施設として残った気がする。こういった発想が戦前期の問題点かもしれない。今現在のような異常な反日というのも少なかったのではないか。結局感情的な問題に過ぎないのだから。
写真は、ネット上から拾った戦前の絵葉書写真。
1930年(昭和5年)の写真では、入り口の大鳥居はないから、昭和十年代くらいに建てられたものだと思われる。
戦後、完全に破壊され、今は公園となり、李舜臣の巨大な像があるが、忠烈祀前にある銅像には、兜のてっぺんにあった、天の逆鉾のようなオブジェは存在しないことから、この「逆鉾」の史実性は薄いようだ。最後の写真は1957年(昭和32年)当時のもの。
戦前の光景を映し出すものもある。朝のラジオ体操(早起会?)のような光景。子供たちの参拝姿など平和な雰囲気である。
白村江以前には半島にも神社はあったかもしれないが、わかっている中での最古社ということになるのだろう。
そうなったからと言ってアメリカにとって本…
みそぎはらへ 二九十一二三
日本のポープは天皇陛下 新嘗祭にあたって
今日は新嘗祭である。新穀を神々に捧げ、天皇はこれを神々と共に食す。天皇と神々が食物を媒介として一体化し、日本の国土に居住する人々もまたその時間を共有する儀式であり、日本固有のものだ。
日本には民族を統合することのできるアイデンティティーが存在する。
多くの国や地域や民族にはそのようなものが存在しないところもある。
西洋人の押し付けで民主主義やキリスト教的価値観を植え付けられ、それを西洋人は「進化している」と喜んでいるが、世界を見渡してみて思うに、それが実を結んでいるところは少ない。
アラブ世界はかつては自由に旅行したり海外との交流や経済活動もそれなりに行えた国が多く存在したが、「アラブの春」とか言う、西洋人の大喜びした「価値ある」変動の挙句、ほとんどの地域で政情不安に陥り、まともに旅行できる国はわずかになってしまった。
オリジナルのキリスト教圏以外の国や地域でキリスト教が普及した国の大半は政情不安で内政も経済活動もグダグダで不安定である。フィリピンや南米、中南米が典型だけれど。フィリピンは近年ようやく自国の本来のアイデンティティーを蘇らせようという動きを感じるものの、それ以外の大半の国々は相変わらずである。
その国や地域にはそこに暮らす人々や民族が必要とする価値観というものが存在する。こういうところに、特定の民族や文明の価値観を上塗りし、本来のオリジナルなアイデンティティを破壊してしまえば、そこに暮らす人々の意識、精神、魂が不安定化するのはあたりまえのことだ。
こういう地域や国家は個々のポテンシャルが高くても国家や民族としての力はなくなってゆく。
それはこのおよそ200-300年の世界史が証明している。
キリスト教を信仰するということは、例えばカトリックなどの場合、ほぼ完全に白人が支配する組織であり、当然本部はイタリアのローマバチカンにある。
結局、白人の司教やら教皇を敬愛、崇拝することになる。こういうロジックに気づかず国家として、キリスト教を受け入れてしまう非白人国家というのは、私から見れば悲劇でしかない。
白人を崇拝する、という言い方が過激すぎるとすると、西洋文明を崇拝する。と言い換えてもいいかもしれない。
私はキリスト教を批判するつもりもないし、嫌いでもない。白人嫌いでもないし、反西洋でももちろんない。むしろ彼らの賢明さに尊敬の念すら抱いている。
私たちは日本人である。日本には日本固有のアイデンティティーが存在する。それは、神々の住まうこの世界と、その世界の祭祀王である天皇の存在である。
キリスト教やイスラム教やヒンズー教や仏教、儒教を信仰しても構わないが、日本人であればまず第一にこのことをしっかりと心に留めおく必要があり、この日本という国の恩恵を受け、この国に暮らす者として、日本人でなかったとしても、この国の、日本文明の成り立ちというものへの理解と許容が必要であろう。
日本文明にとっての「ポープ」は天皇であって、ローマ教皇ではない。
古代朝鮮半島を勢力図で見てみる
1枚目は紀元前1世紀頃の勢力図。この図は昨日もアップしたが、1-4世紀ではなく紀元前1世紀のものであった。これを見れば明らかなようにこの時期はまだ朝鮮半島にオリジナルの国家は存在していない。
半島の大半は漢(前漢)帝国の一部、日本人によく知られたところでは「楽浪郡」などの「郡」地域となっていた。
東南部の「韓」というエリアは日本列島の日本海側に拠点を置いていた出雲系種族と同根又は同一族の居住地域ではないか。
この図を見る限り、それ以外の可能性は極めて低い。
素戔嗚命が韓土を往復しこの地を経営したという事績は日本海側及び北九州、対馬などの神社に多く存在する。
スサノオの時代ははっきりしないがスサノオはこれよりもう少し後かもしれない。しかし、この時期にも同じようなことがあったのは間違いない。
スサノオの息子の五十猛命もまた渡韓の伝承が数多くある。
北九州系種族も関わっていたかもしれないが神社等の事績を見る限り出雲系の方が古いだろう。
2枚目の図は2世紀頃の図。この時期になると満州地域からの勢力の侵入があったようだ。
渤海使は7-8世紀頃だが、東北には大陸からの渡来民の伝承があり、この時期にも半島よりも北側の今のロシア領あたりからの海上交通があったかどうか。
三韓の諸国家群が成立している。この時期が素戔嗚命の活動時期かもれない。
白山信仰は白頭山に関わるらしいがこの時期の動静に関わる神であろうか。
3枚目は4世紀頃の図。この頃になりようやく今の朝鮮半島の国家の基礎ができたようだ。
この後しだいに新興の巨大国家「唐」に半島が圧迫され、半島南東部を大和朝廷が守護あるいは共同防衛という形で守ろうとしたものの最終的に白村江で敗れて半島の拠点を失うことになる。
これが663年10月。7世紀のことだ。
紀元前1世紀の図を見れば明らかなように、この時期の古代において朝鮮半島にはオリジナルの国家はまだ存在せず、半島の大半は漢帝国の領域であり、日本の出雲族系の居住地域があったのであろうと思われる。
(写真はwikiより)
みそぎはらへ 二九十一二十 ウガヤフキアエズ生誕地 対馬 住吉神社
ウガヤフキアエズの生誕地と言われるのは、宮崎県の鵜戸神宮が一般的だが、ここ以外にも鹿児島県大隅半島などにも伝承地がある。
対馬美津島の住吉神社にもウガヤフキアエズ生誕伝承がある。
由緒によれば、当社創建は神武天皇の御代。
「この時、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を祀り、津口和多女御子神社と云ふ。彦火火出見命、豊玉彦の姫、豊玉姫を娶り、三年。懐妊の身となり産室をこの地に造らしめ給ふ。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊誕生抱育の古趾なり。
神功皇后三韓征伐の折、海神を斎き祀りしより住吉神社と云ひしなり。」
と書かれてある。
生誕地がここというのは怪しいと感じたが、居所があったかもしれない。
とにかく、美しい場所であるというにつきる。
欧州人が感じた日本と韓国
先の文章を書いたのちに思い出したことがある。
日本の神道を絶賛するあるフランス人が書いた書籍に、このような記述があった。
「西洋人の私として感じるのは、日本よりも韓国の方が分かりやすい。違和感が少ない。正直日本のことは理解できないことが多い。」
日本を絶賛している人がこのように言っているということ。
また私の知人で北欧系の人と話をしていた時も、
「韓国は日本に比べればヨーロッパみたいだ」
と言っていたのを思い出した。
これは本日書いた文章の補足
朝鮮半島と神道と素戔嗚のこと
釜山に、秀吉の朝鮮出兵時の朝鮮将兵を祀る忠烈祠がある。本殿を少し下ったところには将兵に混じって戦った商人だか農民だか町人だかを祀るお堂もある。
ここはデートスポットのようになっているらしく、若い二人連れが多い。学生の修学旅行のコースにもなっているらしく、大声でまくしたてる女性の案内に連れられている学生らしき団体の姿も目にする。
私は本殿などで鎮魂の参拝をしていた。もちろん日本式にだ。
ここへ来るまでは、この地には多くの参拝者がいて、朝鮮式の祈りを捧げているものと思った。しかし、祈りを捧げているものは私だけである。奇妙であった。
みな、本堂やら他の建物を興味深そうに、解説の案内版を見て、本堂内を覗き込みはするものの、誰も祈りを捧げるものがいない。なんだか拍子抜けするほどであり、寂しげな気さえする。定期的に祭儀が行われているらしくそういう時は違うんだろうけれども。
日本では地方の護国神社には人が少ないが、靖国神社には多くの参拝者がいて、みな祈りを捧げている。豊臣秀吉ゆかりの、名古屋の豊国神社にも参拝者がいる。しかし、ここで祈りを捧げるものはいないのか。
祭儀の時以外の、普段の姿こそが真の姿を現す。
こんなものかと。こういうものを見るにつけ、彼らの「アイデンティティー」の希薄さを感じるのである。こんな場所に来ても、なぜか他人行儀な空気感が漂う。
どこを歩いても、人々が土地を背負っている感覚がない。その土地に人の魂が根付いているという感覚が伝わってこない。
この空気感は、奇妙なことに、どちらかというと東部ヨーロッパ地域のどこかの国にいるような感覚に近い。もっとも欧米人にはキリスト教やそれ以前の多神教文明の痕跡があるけれども。
どんな土地へ行っても、ある個人がなにがしかと繋がっているということはあるのだろう。しかし、ここには人と土地と自然と先祖の魂やそれを支える神々の繋がっている気配というものはない。それがなぜか、欧州の東部地域を巡った時の感覚を思い出す。
上手く言えないが。何か濃密さが足りない。薄く、はかない感覚。その寂しさが旅行者としては何か旅愁のようなものを誘うということはあるかもしれないが。
同じ欧州でもイタリア、フランスなどはまた全く違う。西洋文明の原点に近い地域だからだろう。
韓国は日本文明の源という感覚は全くなく、むしろその辺境の匂いすら薄い、ということかもしれない。
話を戻す。
素戔嗚命が朝鮮半島から来たとか、天皇家や神道が朝鮮由来だとかの書籍をよく目にするし、近年ではかなり多くの日本人がそう考えているような気がする。
半島の南東部に前方後円墳があるから、これは半島由来だとか。
ここ数年、さまざまな書籍が出て、戦後隆盛を極めた、日本古代史の「朝鮮由来史観」を否定するものが出ている。私も日本国を自分自身で足を運び、各地を巡る中で、日本古代史の朝鮮由来史観はあり得ないと感じ、またそのように書いてもきた。
やはりそう思う。
素戔嗚を始め、日本の出雲あるいは北九州地方を拠点とする部族は、古代において、日本海を挟んだ両端に居住しており、交通があった。どちらかと言えば、朝鮮由来ではなく、日本由来である。
前方後円墳が半島南東部にある。だから古代氏族や天皇家の多くは半島由来だ。ではなく、半島南東部にも古代日本人の拠点があったからそこに前方後円墳があった。
前方後円墳が半島由来ならば、ソウルやピョンヤンあたりにも、朝鮮の古代王族の墳墓として前方後円墳がなければならない。それならば、由来説は有力説と言えるだろう。
三韓は日本由来かもしれない。出雲族の分岐種族かもしれない。そのようにすら感じる。
当時の朝鮮半島は、北半分は当時の中国領、漢だか唐だかの。三韓は半島の南半分にしか勢力圏がなかった。ちょうど今の韓国と同じ領域に相当するわけだが。
神道が半島由来なら、鳥居の一本でも残っているべきだろう。日本統治が終わった時、そのようなものは全て破壊されたんだろけれど。それが、彼ら由来のものならば、完全に破壊する必要はない。一本くらいは残っていて不思議ではない。朝鮮出兵時に釜山で作った毛利輝元の石垣は残っているくらいなのだから。鳥居は何故ないのか。
もともとないから、彼らの魂に何も響かない。全て壊しても何も感じない。そういうことだ。魂の奥深くにでも、無意識にでも、それが根付いていれば必ず何かを残すはず。
日本が拠点とした半島南部は、白村江の戦いをもって終了し、秀吉の時代に侵入したが、実質明治期まで疎遠となる。
白村江から明治期までの期間に朝鮮半島に起こったことを知れば、この地域が今現在どういう場所なのかが明らかになるだろう。この間に日本文明の痕跡もそれを受け継ぐ者の魂もほぼ消失した。
明治以降30数年間日本が統治したが日本文明がこの地に根付くことはほとんどなかった。
忠烈祠の入口にある忠烈の銅像の兜の天辺に天の逆鉾のようなものが付いていたのだがそれが唯一繋がりを感じたものかもしれない。
対馬が日本文明の境界線であることは明白であり、古事記にも大八洲の一島として数えられていることを思えば、この土地は日本人にとって絶対に守っていかなければならない場所であることは言うまでもない。
我々日本人はもっと日本を大切に思う心を持たねばならない。
みそぎはらへ 二九十一十九 対馬 海沿いや小島に建つ無数の鳥居
車で走っていると、入り組んだ湾内のいたるところに丸い小島が浮かんでおり、大概は鳥居が建っている。
小島ではないが鳥居が海に面しており、船でないといけないような神社もある。
神社名も祭神も何もわからない。
しかし人が近寄れない分、神聖さを感じる。
1枚目の写真の鳥居はかなり大きなもの(というか普通のサイズ)。両脇の灯篭が大きいので大きさの尺度がわかりづらい。対馬壱岐の神社は灯篭が非常に大きなものがある。
壱岐にある神社の灯篭は特にそうで大概は鳥居くらいの高さである。
壱岐対馬を歩いていると日本の原風景を見る思い。
神々と人間と自然とが仲良く共存する風景。何も意図しない自然体。土地を守護し静かに見守る神々。
日本中巡っているが、ここまで変わらぬ風景を保っている場所にはあまり出くわさない。
まさに手付かずのままの日本がそこにはある。
みそぎはらへ 二九十一十八 素戔嗚の匂い漂う対馬最北の地
対馬の北端は入江のように小島や岬が無数にあり、それらには鳥居があって、神域のようになっている場所が無数にある。
歩いていけない場所もある。干潮時にしか歩けない汀を歩いてようやくたどり着くようなお社や神域もある。
島大國魂神社は、目立った神社としては最北端にある神社だが、岬の先端にあり干潮時は海沿いを歩いて行けるが満潮時は道がなく辿り着けない。
自分が行った時はちょうど満潮時で近づくこともできず見ることもできなかったが、港に沿ったところに付近では一番大きな、那祖師神社がある。
ここは付近関連の三社をお祀りしているようで拝殿の額には、那祖師神社、若宮神社、島大國魂神社の三社の名前が記されている。
那祖師神社
祭神 素戔嗚命 曽尸茂梨(そしもり)
由緒書きの素戔嗚に関する記載には、
尊が出雲より、その当時同国より親しみありし韓国の東南部三韓御経営のため往復遊ばし。渡韓の要衝である対馬には尊ならびに若宮姫を祀る神社は六十八座あり、出雲の十六座より相当多いことが分かる。
若宮神社
祭神 五十猛命
素戔嗚の長男で共に韓国に渡った後、晩年は和歌山に鎮まった。紀伊國一之宮伊太祁曽神社の祭神でもある。
島大國魂神社
祭神 天ノ狭手依比賣 素戔嗚命
天ノ狭手依比賣は、古事記によれば有史以前、対馬最初の国司であり女神であるという。
対馬北端には素戔嗚に関する神社が多いようだ。今回行かなかったが戻って後調べたところ他にも以下のような神社事績もある。
岩楯神社
祭神 素盞嗚命、五十猛命、蛭子命
「往昔、素盞嗚尊が韓土より帰り玉ふ時、此の浦に御船を寄せ玉ひしと云ふ。依って後年に至り神徳を仰ぎ祀る所なり。」
