みそぎはらへ 二九十一十六
対馬 和多都美神社 三ツ鳥居 豊玉姫墳墓
神殿前の湾内から五つほどの鳥居が連なり美しい光景を見せる。干潮時には厳島神社のように海上の鳥居まで足を運ぶことができる。
対馬国一之宮 海神神社も元和多都美神社という説があるがどちらが古いのか分からない。
海神神社が豊玉姫のみを主祭神とするのに対して、当神社は彦火々出見命、豊玉姫命の夫婦神を主祭神としている。
由緒によれば、豊玉姫の父神、豊玉彦がここに宮殿を営み海宮とし、地名を夫姫(おとひめ)としたのだという。
社殿背後は夫姫山といい、社殿後方に大岩があり、ここに豊玉姫の墳墓があり、さらに西の山下に豊玉彦の墳墓があるという。
彦火々出見(山幸彦)が釣針をなくして、当地にやってきておよそ三年この宮で過ごし、豊玉姫を娶ったという。
まさに神話上の故地ということになる。
神殿の脇及び神殿前の池には三ツ鳥居がある。
これは卜部氏と関係があるのか。
対馬国一之宮海神神社は伊豆山に鎮座することから卜部氏との関係が強いものと思うが、当社もその影響あるということか。
みそぎはらへ 二九十一十五 対馬 安徳天皇稜
対馬に安徳天皇生存伝説と天皇陵がある。
安徳天皇生存伝説というのはいくつかあるが最も信憑性が高いのは宇佐八幡神主家の宇佐氏家伝安徳天皇すり替えの話であろう。
これについては宇佐氏神主家が書籍を出している。
今回対馬を車で走っていたら、「安徳天皇稜」と言う立て看板が道路脇にあったので不思議に思い訪れてみた。
車が一台ようやく通れるほどの道があるものの、ほとんど人が訪れることがないであろう農道のような、林道のような山道を山の上まで上がること5ー6分。
道が行き止まりになって小さな駐車スペースが設けられていた。
そこに詳しい案内板がある。以下、
対馬の中世史は宗氏の入国に始まる。宗氏の出自は諸説あるが、ここ久根田舎の住民は古くからこの土地の字名は全て安徳天皇にちなんだものと伝えられているという。
そして村人はみな宗氏を安徳帝の直系だと信じているのだという。
説によれば、壇ノ浦合戦の際、従臣斎藤為持が帝を抱き筑紫に逃れた。筑紫の少弐資頼が鎮西守護となり密かに天皇を奉じると、帝は島津氏の女を娶り、二子をもうけられた。これが初代宗重尚、二代助國であるという。
寛元四年、宗氏が対馬を領すると筑紫吉井から安徳帝を迎え、この地に御所を設けた。建長三年(1251年)四月十五日、七十四歳で崩御という。
当山付近は、御所があったところで、陵墓は末広がりになっており、納言殿塚、重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚犬塚などの古墳があるという。
安徳天皇稜とされるところには宮内庁の案内板があり、「佐須陵墓参考地」となっており、単なる伝説の域を超えた何らかの信憑性を感じさせるものである。
みそぎはらへ 二九十一十四 対馬国一之宮 海神神社
祭神の豊玉姫は大綿津見神の娘で神武天皇の祖母にあたる。博多の志賀島海神社から対馬國一之宮である当神社に至るまでの海路上に大綿津見神に関わる神社が並ぶ。
主に綿津見神、住吉神系の神社が、九州から対馬に至る航路上に国家鎮護の守護神社として鎮座していることは明白である。
由緒によれば、延喜式明神大社和多都美神社に比定されており、神功皇后の旗八流が納められた所であり八幡本宮として対馬国一之宮と称す。
また、この神社は伊豆山という山にあり、伊豆(稜威、巌)とは、神霊を斎き祀ることを意味するのだと書かれている。
伊豆とはそういう意味だったのか。
伊豆壱岐対馬は共に卜部氏に関わる土地。しかし、壱岐対馬共に伊豆と縁が深いというのは非常に不思議で興味深いことである。
多くの神社を巡って来たが、社地及び神社が鎮座する周辺の環境を含めたところまで見て、この神社は極めて印象深い。
周辺には人の気配が極めて少なく神が宿るに優れている。周辺の土地が荒れないように自分で土地を購入したいほどである。
神社境内地正面にある海までの風景は自分の神社史に残るほど美しい。
対馬にはそういう神社がいくつかあったが、その一つがこの神社であった。
この20年日本で起きたことで一番大きなこ…
病は気からという。 人間には、肉体の他に…
大八洲の一つ 対馬の今
「いや〜すごく騒がしいですね。」
レンタカー屋のオヤジと話をする。
「客はほぼ韓国人でして。ここはもう日本じゃないですよ。占領される。」
冗談なのか本気混じりか。多少寂しそうではある。
「対馬と壱岐は人口ほぼ変わらないんですね。」
「以前は8万人くらいいたんですが、魚が獲れなくなって人が減ってしまって、今では3万くらいしか。」
壱岐は対馬に比べれば5分の1ほどの面積しかないが、壱岐が平坦な地形であるのに対して、対馬は非常に急峻な山々が連なり人が住めるスペースが限られている。
人のいるエリアから隣のエリアに移動するには必ず急な山道を上がってまた降りていかなければならない。
バイクなどのツーリングをする人にとっては最適な地形だ。島も大きいしゆっくり一周するなら一日くらいの大きさ。壱岐が外周170キロだから、対馬はその数倍になるだろう。
「韓国人観光客は昔から多いんですか?」
「昔から多いし戦前から住んでいる人もいた。」
観光客の8-9割は韓国からで、北端の比田勝からの船便は、私が乗船した時は、恐らく私以外2-3人しか日本人はいなかった。
比田勝のターミナルは、5-6台の観光バスが、旅行客が着くのを待っている。
釜山から比田勝に戻った時、パスポートチェックの役人に、
「東京からですか!何で来たんですか?」
「いや旅行ですよ。対馬から1時間で釜山に行けると人から聞いて行ってみようかと。こんな船便があることは知らなかった。」
「いや〜珍しい。観光ですか?この船は日本人はほとんど使わないんですよ。わずかに対馬の住民が使うくらいです。荷物拝見しても良いですか?」
入国審査で、海外でもこれだけ時間かけられたことがなかったので、多少驚いたが、ちょうどトランプが来日した日だったから。
「厳しいですね。トランプが来日したからですかね。」
「今警戒強化中なんですよ。」
「羽田も厳しいですかね〜。」
「いやここが一番厳しいと思います。東京ですか〜。ほとんど記憶にないなあ。珍しい。」
壱岐から対馬の船がついた時も、出口に警官が3人もいて客を眺めていた。国内では非常に珍しい光景である。
スウェーデンからノルウェーにバスで行った時、到着したオスロでバスを出た途端厳しいパスポートチェックが入ったがあの時を思い出した。もちろん壱岐ー対馬の場合、国内だからパスポートチェックはないのだが。
対馬で最大の街 巌原は韓国人観光客で溢れている。中心街に大きなスーパーがあるが、韓国人がまとめ買いで忙しい。
ここに来ている観光客は釜山市内にいる住民と言うよりは地方の農村から来てるような感じである。彼らは服装で違いがはっきりしている。それは釜山に行って分かったことだ。
日本と韓国との複雑な事情や現状というものをどれほど意識しているのか。恐らく大半は何も考えていないだろう。単に身近で安価な海外旅行に心弾んでいるという風である。
対馬の人には複雑だろうが、彼らがいなければ相当に寂しい島の現状が浮き彫りになる。
しかし、観光客たちはほぼ団体で行動しており、島内で観光客がいる場所は極めて限定されており、それ以外の大半の地域は、休日でも人がほぼ見当たらないほど。
壱岐で対馬の事を聞いた時、
「あそこは韓国人だらけですよ。そのうち占領されちゃうんじゃないかと心配してるんですが。」
「壱岐はどうですか?」
「壱岐はいないことはないが少ないです。」
「壱岐もたくさん来た方が儲かっていいんじゃないですか?」
「いや〜。」
複雑な心境であった。
対馬には北端の上対馬地域を中心として自衛隊の駐屯地があり、有人国境離島法も最近施行された。対馬の船のターミナルには、
「祝 有人国境離島法 施行」
という横断幕が掲げられていた。
住民は安心感を多少増しているように思われる。
みそぎはらへ 二九十一十一
日本海海戦戦勝記念碑 対馬 殿崎に天光が射す
住吉三神 宗方三神 綿津見三神 が守る国防の地
対馬の北端、釜山行き船のターミナル、比田勝港から車でさらに北端方向へ数分。
この先にある海域で日本海海戦が行われた。
天気が良ければ釜山の夜景がかなりはっきりと見えるほど、朝鮮半島に近い。
この殿崎浜に日本海軍に撃沈されたロシア船の水兵が上陸したらしい。
現地住民ははじめ驚いたが、憔悴した水兵を見ると、すぐさまこの岬にある井戸に連れて行き喉を潤してもらったという。
その時の井戸が今も残る。
この日は風が強かった。比田勝から釜山へ向かう船は海が荒れているから引き返すかもしれないとアナウンスがあったが何とか釜山へ。
福岡から対馬までの海より、対馬から朝鮮半島までの海の方が荒い。
対馬海峡は日本の絶対国防圏として今も重要な意味を持つ。
宗方三神、住吉三神、綿津見三神のご加護を祈ると、海上へ天光が射した。ほんの数分の出来事だった。
三韓征伐、白村江、元寇、朝鮮出兵、日露海戦、そして戦後引き揚げから朝鮮戦争まで。
この地は日本の激動の歴史と共にある。
日本国防の最重要地点である。
みそぎはらへ 二九十一十 壱岐 住吉神社
最古の住吉神社であるといふ
神社内に、最古住吉宮であるということが書いてある。宮司に聞けば、
「住吉神社は神功皇后三韓征伐の帰途、住吉神による戦勝に感謝して建立せられたもので、帰途上の通路で考えれば壱岐が最も初めになる。」
のであると。
「当神社は四大住吉、すなはち壱岐、長門摂津、筑前に入るが、通常は三大住吉ということで壱岐が外れることもあります。」
ということだ。理屈でいえば確かに壱岐が一番始めかもしれない。
普通住吉と言えば摂津(大阪)の住吉が最も有名なのは周知だが、長門摂津の住吉は明らかに三韓征伐の帰途上に勧請されたものであろう。
筑前は、住吉最古社と言うが、イザナギが黄泉の国より戻った後、
筑紫の日向の橘の小戸のあはぎはらに禊払給いし
時、綿津見三神と共におうまれになったのが住吉三神ということで、その場所がここ筑前の住吉神社の場所であるということになっている。
神功皇后が三韓征伐に行く際、住吉神の神がかりがあり、神託が降りたということで、住吉神社が三韓征伐以前から何処かに住吉神のお社が存在したのか、神がかりが起こり、三韓征伐後に神社を建立したのかは定かではない。
しかし、筑前の住吉神社は、神功皇后に住吉神が神がかった時点で既に神社が存在したものと考え、当社を最古としている。
壱岐 住吉神社の由緒書を見ると、
「御凱旋の為軍越神事を定め臣安倍介麿に壱岐島を賜ひ大宮司としてその子々孫々をして永く奉仕させた、異敵降伏国家安泰の神秘を行ふ軍越神事の秘法を伝えしめたまふ」
とある。さらに、
「当神社は神功皇后帰陣の際、御神祭の由緒深き古社にて即ち住吉神社の草分けとも申し奉るべき日本最初の住吉神社総本宮なり次いで御鎮斎あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に日本四大住吉の一にして古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり」
と言う。
日本人が訪れることの多い街を歩けば、大概…
みそぎはらへ 二九十一八 壱岐 月読神社
全国月読宮の元宮とも言われる。
由緒によれば、第二十三代顕宗天皇の時、阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島任那に使いに出た際、人に月の神が神がかり、「土地を月の神に奉献せよ。」との神託あり。
月読命の子孫である壱岐県主押見宿禰は壱岐月読神社を分霊して京都に祀った。
これが当神社に関する初出である。この神社は松尾大社の摂社としても今も残る。
押見宿禰が神道を中央に根付かせたともあり、壱岐月読宮は全国の月読宮の元宮であるとも。
卜部氏は伊豆壱岐対馬にあり、古代祭祀氏族で卜占を行った。壱岐卜部氏は壱岐県主押見宿禰が子孫だという説もあるが、月読命とは暦の神でもあり、理屈は通じる。
