Aという人物がBということで激しく怒っている。社会はそれによって動揺する。そういった問題が起こっている時、Aという人物の怒りの源泉は、それとは全く無関係の「お」という問題が深く関わっている。

明治神宮参拝

ただ今本殿は修復中で仮殿が設けられている。
平成三十二年で遷座百年になるのである。

旧約聖書申命記三十二章第8項から9項の部分にはこうある。いと高き神が国々に嗣業(神によって分け与えられた引き継ぐべき土地や財産のこと)の土地を分け/人の子らを割りふられたとき/(いと高き)神の子ら(神々)の数に従い/国々の境を設けられた。 主(ヤーウェ)に割り当てられたのはその民/ヤコブが主(ヤーウェ)に定められた嗣業。

鎮座するとはその関わる地域/エリアに、それがあるということである。人々は、神々や祖霊や自然霊のあるところに暮らしている。同居しているとも言う。そこに暮らす人々は、「それ」をうやうやしくお迎えし、もてなす。「おもてなし」という言葉の真意はそういうところにあるだろう。

信じるか、信じないかで、救われるか、救われないかを厳密に区別するのが宗教であるとすると、神道における重要事の一つに「関わる地域又は土地」ということがある。
霊魂を鎮座させるということ。先述の『日本文明の構造を来るべき世界文明構築の基礎とする』図1で示したように、旧文明の宗教と神道の違いの最大の特徴はここにある。

日本仏教は葬式仏教ともいわれるが、仏教の発祥地インドにおいては、墓はほぼ存在しない。インド発祥の宗教は仏教を含め、輪廻転生の思想があり、死ねば魂は肉体から離れるという視点から、死体を重視しない傾向がある。従って、仏教=葬式=墓と言った在り方は、日本における固有の状況である。

仏教はそもそもインドにおいて、ゴータマブッダが、人間に存在する煩悩、執着、業を脱して、人間の魂として再び現れない、あるいは六道輪廻のループから脱するための修練法を解き明かしたことを始めとしている。所謂「解脱」のためのプロセス法である。

では非宗教の現代を経て再び宗教は勃興するのか?先の文章で「文明の構造」であるとして諸宗教の構造を書いたが、あれは単に宗教的構造を語っただけではないかという人もいるだろう。しかし、世界史に登場する文明のほぼ全ては宗教的な価値観を軸にして成立している。