日本の海軍が旭日旗を使うのは、日本の古代…
邇邇芸命と饒速日命との関係(ノート3)
日本最古の系図で知られ国宝にもなっている籠神社に伝わる海部氏系図によれば、
邇邇芸命の兄、天火明命が海部氏の祖であるというが、天火明命が饒速日命と関係ありとするならばどうか。
饒速日命は 天照国照彦火明櫛玉饒速日命と言われている。神武天皇が東征した際、大和の王であった饒速日は同じ天孫系であった。
同じということは同じということだ。
天火明命系=饒速日系=大物主三輪系
この時、三輪系の権力基盤は後の鎌倉幕府に近かっただろう。源氏系が主となるが、妻方の北条氏が権力構造において優勢であったように出雲系が優勢であった可能性が高い。
神武が大和に入って長髄彦は反乱したが、饒速日が神武を迎え撃ったという形跡はない。同族だったからと考えれば納得がいく。
饒速日の后は出雲系であったかもしれないが、すでに出雲も国譲りが済んだ後のこと。
神武が大和に入って後、いまだ権力基盤は確定的ではなく、十代崇神天皇に至ってようやく天皇家の権力基盤が確立したとすれば、その間、饒速日系から邇邇芸系への権力の移行期が数代に渡り存在したことになる。
神武系はあたかも鎌倉末期の足利氏のような立ち位置であったに違いない。
両者は敵対したというよりも同族間の共同統治的な中での力の探り合いがあったと考えることもできるだろう。
歴史というのは頻繁に似たようなことを繰り返す傾向がある。歴史に詳しいものは歴史をこのような視点から見るだろう。
(写真出典 http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51917633.html)
忌部氏と事代主と猿田彦(ノート2)
忌部氏と中臣氏は共に祭儀を司る役割を持った氏族であり、忌部氏は、神武から数代にわたり天皇家と深い関係にあった。
神武から数代に渡る天皇の后は忌部氏系であったと推察される。この時期天皇家の拠点は畝傍山の周辺、葛城地方にあった。
その後天皇家が三輪氏(物部氏)系列と深い関係を結び、なおかつ物部氏が権力を失って後、中臣氏が天皇家の祭儀の中心になるに従って影響力を失っていったようだ。
徳島県(阿波)は、忌部氏の拠点だが、戦前のこの地方の忌部氏に関わる資料を見ると、忌部氏は応神天皇の時期に、大和地方に大乱が起こり、難を逃れて阿波に渡ったとされる。
忌部氏は、その後朝廷に麻を献上する役割を担った。
阿波国一之宮大麻比古神社は忌部氏に関わりの深い神社であるが、その名の通り、麻と関わる神社であり、社紋も麻をモチーフとしたものだ。
この社紋が、ダビデの星(六芒星)に類似していることから、忌部氏=ユダヤ人説が起こり、かつ阿波、淡路地方にユダヤ教の祭祀施設に極めて酷似した祭祀址があるということで話題にもなっている。
大麻比古神社の祭神は猿田彦であるとか、あるいは忌部氏の祖神であるとか言われるが、恐らく両者には何等かの関係があるだろう。
猿田彦もまた、五十鈴彦(イエズス)とか、ユダヤ人説のある神である。
阿波に下った忌部氏は、その後、紀州や房総の安房地方にも赴いた。
房総にある安房神社は、阿波国の大麻比古神社に配置及び空気感にいたるまで極めて類似しており、大いに興味をそそられる。
安房神社は、大化の改新の時、唯一神社の私有が認められた八神郡が制定されたがその中の一社に数えられている。これが日本国の古代における主要八社であり、古代において極めて重要な神社であったことがうかがわれる。
この八社は自らの領地の所有が認められたいわば別格社であった。(伊勢内宮、伊勢外宮、宗像大社、出雲熊野大社、日前・國懸神宮、安房神社、香取神宮、鹿島神宮)
蘇我氏は忌部氏の後裔であり、一族に武内宿禰もいる。蘇我氏というと仏教の印象が強いが、本来は社家である。
日本書紀によれば、神武から綏靖、安寧の三代の后は、事代主神の娘あるいは孫とされており、事代主神の後裔、又は非常に関係の深い一族と考えられるが、この時期天皇家は葛城地方を拠点としていた。それはすなはち忌部氏ということになる。
神武及び二代綏靖天皇の后には、「五十鈴」という名が含まれる。
事代主→忌部氏→猿田彦とは極めて深い繋がりがあると考えられる。
(写真:大麻比古神社の社紋)
事代主は猿田彦の系譜かを考えるためのノート
神武から綏靖、安寧までの三代の后は、日本書紀によれば、事代主神の娘、あるいは孫であると書かれている。
神武天皇后 ヒメタタライスズヒメ(事代主神の長女)
綏靖天皇后 イスズヨリヒメ(事代主神の次女)
安寧天皇后 ヌナソコナカツヒメ(事代主神の孫 鴨王の女)
五十鈴とは何か?
伊勢の五十鈴なら猿田彦の印象。
猿田彦(五十鈴彦)は伊勢の五十鈴川に住す。
事代主が大国主の子でないことは間違いない。
事代主と賀茂氏とは関係がある。
宮中三殿に八神殿(現在は神殿に合祀)があるが、八神とは天皇を守護する八柱の神々である。天皇守護という観点において最も重要な神々であることは言うまでもない。
八神とは、
神皇日神
高御産日神
玉積産日神
生産日神
足産日神
大宮売神
御食津神
事代主神
であり、実在の人格を持った神という意味では事代主神のみがそうである。他は変化神のような神々。
以前からこれが非常に気になっていた。
事代主の本宮は出雲の美保神社である。
事代主が素戔嗚の子であると感じたこともある。
しかし、事代主は本当に出雲にいたのか?
出雲国譲りの時、タケミカズチはオオクニヌシに国譲りを迫るが、事代主に聞いてくれという。
このオオクニヌシの存在感の希薄さは何か?国主であるはずだがこの無責任さは何を意味するのか?私にはこの神は何か置物のような印象でしかない。
出雲に佐太神社がある。出雲神集いの祭儀(神在祭)が行われていた場所として最古と言われているが、神殿は横並びに三殿あるが、
正殿
佐太御子大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の五柱。
北殿
天照大神及び瓊々杵尊の二柱。
南殿
素盞嗚尊及び秘説四柱の計五柱。
(Wikiより)
となっており、神殿後方の山にイザナミの御陵があるとも言われている。
佐太御子大神とは猿田彦かあるいはその末裔であろう。
南殿は素戔嗚系であるが秘説四柱とは?
神武から綏靖安寧までの三代は、葛城地域において、事代主系列の姫が后となる。
なぜ事代主の系譜が大和にいいるのか。
古事記では事代主ではなく大物主(饒速日)の娘が神武天皇后 ヒメタタライスズヒメであるとなっているので、事代主ではないということになるが。
しかし、五代孝昭天皇の代からは古事記、日本書紀共に物部氏系列の姫が后になっている。
神武から四代懿徳までとそれ以降では宮址にズレがあることから、一貫して物部氏系列の后であるとは言い難いという説があるが確かにそういう気がする。
十代崇神天皇以前の段階では、天皇家は大和地方の一勢力であったと考えられる。
しかし、
大物主(饒速日)と事代主、猿田彦との関係はどんなものか?
(写真 佐太神社 美保神社)
米国の失策 日本を徹底的に叩いたのは米国自身の国運までを縮めた
第二次世界大戦において米国が参戦したのは、英国を助けたいという理由以外、際立った起因はないように思える。日本との開戦は、そのための出汁にされただけであり、日本にとっては、いわばとばっちりに過ぎないのだとも言える。
日本を徹底的に叩きのめして、アジアにおける日本の権益を一つ残らず奪い去った米国の政策は、明らかに米国自身のアジア政策の失敗を意味している。そのことを少しみていく。
それは、大きく見れば、結果的に米国自身の国運を縮めるものですらあった。
米国は戦前から、中国における利権を獲得するため、国民党に肩入れし、日本を牽制していた。またそれ以前においては、日露戦時における日本への戦費調達に協力し、戦後、満州における利権を得ようと画策したことは前回の文章で記載した。
第二次大戦による日本敗北の結果、満州、朝鮮半島における影響力が奪い去られたことで、米国は満州における利権を得ることに最終的に失敗したのみならず、中国の共産化を促進させ、結果的に戦後の朝鮮戦争を誘発させるに至った。
中国が共産化していなければ、東南アジアにおける共産化も鈍化したに違いない。
米国は最終的に、満州の利権と中国における影響力を得ることに失敗したばかりでなく、不要な戦争(朝鮮戦争)までする羽目に陥った。
さらに、ベトナムに共産勢力が入らなければベトナム戦争もまた起こらなかっただろう。ベトナムの共産化は中国の共産化に密接であることは言うまでもない。
ベトナム戦争によって、米国は明らかに自らの国運をすり減らした。これ以降、米国の国運は下り坂へ向かうことになる。ベトナム戦争がなければアメリカ合衆国としての国運は現実のものよりは息の長いのもになっていただろう。
そして、ベトナムのみならず、カンボジアの共産化による、目を覆うばかりの惨劇も起こらなかったかもしれない。
戦後、日本は復興して大いに栄えたが、アジア全般として見た場合、日本のアジアにおける影響力の喪失によって、結果的に、アジア圏としてみた場合の世界におけるアジアの立ち位置はワンランク低いものになったことは確実である。
満州国が存続していれば、米国や欧州の自由主義経済圏は早い段階で、アジアにおける経済的発展による利益を享受できたかもしれない。
朝鮮半島の分断はほぼ確実に免れ、近い将来、名目的にであれ、独立し満州地域と合わせてアジア圏の中心地域の一角として繁栄した可能性もある。
一方、中国においても、満州国が防共の障壁となれば、共産化は免れたかもしれない。
国民党は米国からの支援を得ていたが、日本とも共闘する方向に舵を切りなおせば、共産軍はそれほど脅威にはならなかっただろう。
すると、中国もまた満州、朝鮮半島地域と共に、早い段階で自由主義世界の一員として発展した可能性がある。
台湾に敗残の国民党がなだれ込み、多くの台湾人が犠牲になるような事件もまた起こらなかったことは言うまでもない。
こうして見ると、米国における当時のアジア政策は、単に日本に勝利したというだけで、それ以外に特筆すべき成果はほとんどないのである。
英国を救わんがために、第二次世界大戦への参戦の口実として、日本を開戦へと誘発させたルーズベルト政権及びその後の米国政権のアジア政策は結果的に「敗北」したに等しい。そもそもアジアをどうするかという政策自体希薄だったのかもしれないが。
100年後、米国史を彼ら自らが振り返ってみた時、日本との開戦までは良かったものの、その後、日本のアジアにおける影響力をことごとく奪い去った自らの政策、戦争方針は間違いであったと見るようになるのではないかと私は思うにいたった。
日本とはほどほどのところで停戦し、早い段階で日本と協調して、アジア政策を進めることができていれば、アジア史というものもまた随分変わった景色になっていたであろう。
もちろん、そうなった場合、他の戦争が起こったかもしれないし、日本人が、奢ることなく、冷静に世界戦略を遂行できたかどうかはまた別の視点が必要になるだろう。
日本にとってどちらが良かったかまでは誰にも分からないが、あれほど国土を徹底的に破壊され、多くの国民を亡くし、自らの文化文明を破壊されたことを考慮すれば、あれで良かったんだと喜べるものでないことだけは間違いのない事実である。
(写真:フランクリン・D・ルーズベルト)
戦前日本の対米関係の三大失策
日本の戦前期における対米関係には大きくみると三つの大きな失策があり、この三件に関して失策がなければ、対米戦争の回避、あるいは損害を最小限に抑えられたと考えられる。
まず一つは、日露戦争の戦費が不足していた際、アメリカの鉄道王ハリマンと実業家シフらが、日本に対して巨額融資を行ったが、ハリマンらは戦後の見返りを期待してのものだった。
日露戦後、ハリマンは南満州鉄道事業に加わらせて欲しいと提案してくる。ハリマンからすれば自分が金を貸したから日本が勝てたんだ。そのくらいの権利を主張できるはずと考えていただろう。
当時の首相桂太郎他、主要な政治家の大半はこの提案を基本的に受け入れる方向で意見が一致していたが、外相小村寿太郎がただ一人この提案に激怒して、なかば強引に反故にしてしまう。
日本人が血を流して得た権益の半分を無傷の米国が手にするなど日本国民が許さないだろうということや、いくつかの問題点があったようだ。しかし、完全に拒否するのはまずかった。
ハリマンは激怒し、これがきっかけとなり、米国の対日感情は決定的に悪化する。これ以降、米国が日本を仮想敵国とするようになる。
二つ目は、先日記載した、河豚計画の頓挫である。河豚計画が実現し、ユダヤ人の移住が行われ、アメリカ資本を満州に引き入れることができていれば、日米関係はかなりの程度回復し、米国は対日戦を急ぐような真似を起こさなかったであろう。起こさなかったというより、起こせなかったと考えた方が良いかもしれない。
しかし、この計画も日独伊三国同盟が深化していくに従い、頓挫していく。これは松岡洋右をはじめ、当時の政治家や軍人たちの国際情勢判断が性急過ぎたことが原因であろう。松岡洋右は戦後悪人呼ばわりされているが、彼の判断は、当時の国際情勢に照らせば、かなり深みのあるものだった。しかし、ナチスドイツに対する見方に慎重さが欠けていた。
彼は、共産主義を牽制し、当時世界の最大覇者アングロサクソンをも牽制することで、日本の存在感を示す、あるいは自らの地位の安定化を図るという図式であったはずである。ウルトラCを狙いすぎたのかもしれない。
そして最後は、日米戦突入が決定した後のこと。当時、海軍軍令部も陸軍参謀本部も、日米戦に関して一定の計画を持っていた。海戦に関してはできるだけ日本近海まで米国艦隊をひきつけてこれを迎え撃つ、という日本海海戦型の戦術であった。しかし、山本五十六がただ一人この基本作戦に猛反対し、無理やり真珠湾攻撃に切り替えさせた。
確かに戦術面だけ見れば、真珠湾攻撃は世界戦史上のエポックメイキングな闘いであり、華々しい戦果であったには違いない。しかし、当時8割以上の米国民が戦争突入には反対であったものを、日本に対して激昂し、徹底抗戦の意志を固めさせてしまうという、戦略上の大失策である。(もちろんそれが当時の米国大統領ルーズベルトにとっては願ったり叶ったりであったことは近年の研究で明らかになってきている)
日本海海戦は戦術的にも戦略的にも成功したが、真珠湾はそうではない。
ゆっくり宣戦布告して、日本近海で米国艦隊を引き寄せて、迎え撃っていたら、日本側の損害もある程度出ただろうが、当時の軍事情勢からして、日本の勝利はほぼ間違いなかっただろう。そこで米国内の厭戦気分をさそって優位な戦争終結に持っていくことは充分可能だった。
そもそも短期決戦というのが日本の基本戦略であって、長期戦なら米国には絶対勝てないというのは、山本五十六にしたところで当時の軍人達の一般常識だったんだから。彼の戦術は結果的に本末転倒となった。山本五十六は米国人を「ブチ切れ」させた。
戦後山本五十六を異常に持ち上げる風潮が流行ったが、個人的にはあまり評価していない。
以上、この三つが戦前期における日本の対米政策における決定的な失策であり、この三つのどれか一つでも回避できていれば、対米戦は回避され、あるいは起こったとしてもあれほどの大損害は防げたはずである。
大損害とはそれまで積み上げてきたもののほぼ全てを失ったという意味である。
しかし、大きく見ると、アメリカもまたアジア政策に関しては、日本を敵に回したことで失敗したと言えるだろう。満州は自分のものにはならず、中国はソ連の手に落ちた。
(写真:鉄道王ハリマン)
鮎川義介のこと 河豚計画の創始者
日産の創始者。満州へのユダヤ人5万人の移住計画の提唱者でもある。河豚計画とはそのことを指す。
樺太にユダヤ国家を建設するという話もあった。
この計画が実現していれば日本は対米戦争には入らなかった可能性は高い。というか米国は日本とは戦争できなかっただろう。
松岡洋右は米独二正面作戦でソ連の防共を画策したのだろうがドイツへの見方は誤算であった。あと半年待っていたら三国同盟は成り立たなかっただろうに。
以下はwikiより
1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[注釈 2]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右[注釈 3]ものちに河豚計画に参加。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E4%BB%8B
神々と向き合い人を見る
普段から神々のお社行き、神々と向き合う習慣を持つようになると、人間を見るときもまた同じように見ることができるようになる。
現代人は人の上っ面しかみない傾向が強くなってきているように思うことがあるが、神々と向き合う習慣の希薄化と関係があるかもしれない。
上っ面とは「肉眼」とか「気持ち」あるいは「知識」とかだけでものごとを見るということだ。
人の魂をみる力は、神々と向き合う習慣を持つことで養われる。
