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日本文明・神道の話

オルフェウスとイザナギ 
日本神話・文明とオリエントギリシャ神話・文明を繋ぐ複数の共通点

紀元前6世紀頃、ギリシャにオルフェウス教というものが起こった。これはブッダが生まれる前である可能性が強い。

ギリシャにおける神々への信仰とは、神と人との間には絶対的な断層があり、神は不死の存在であり、人は死ぬ。人は死ぬと地の底の永遠の闇の中へと向かわなければならない。

神に対する敬意は絶対的なもので、人は神に対して敬意をこめるために生贄を捧げなければならない。

そういうものだった。しかし、オルフェウス教は、神々と人の関係性を変え、人は死ぬと神の世界に入ることが可能である。秘技参入し、禁欲と戒律を守って生活すればそれが可能なのだと。

さもなくば、人の魂は永遠に人から人へと生まれ変わり、苦しみが続くことになる。

このオルフェウス教の考え方は仏教の基本的なコンセプトとほぼ同じである。

オルフェウス教では生贄を捧げる代わりに香を焚くのである。

ブッダ誕生以前にオルフェウス教があったとすれば、仏教はオルフェウス教の影響を受けたものかもしれない。ブッダの誕生には諸説あり、紀元前4~6世紀ということになっている。

オルフェウスはギリシャ神話に登場する神である。

オルフェウス教について調べていたら、非常に面白いことに出会った。以下の話は、日本神話とギリシャ神話の類似点に詳しい人には既知のことであるかもしれない。

オルフェウスは、ニンフのエウリュディケに恋をして結婚するが、やがて死んでしまう。

オルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために、タイナロン岬の入口を通り、冥界の門をくぐって、冥界へと向かう。そして、冥界の神々に願い、太陽に満ちた世界に妻を再び連れ戻すことを許される。

しかし、それには条件があった。

「妻エウリュディケを連れて戻る時、アウェルブス湖の谷あいを出るまでは、けっして後ろを振り返ってはならない。」

しかし、帰りの道は霧が深く視界がほとんどない。不安になったオルフェウスは、後ろを歩く妻のことが心配になり、ついに後ろを振り返ってしまう。

オルフェウスは、愛するエウリュディケを冥界から連れ戻すことはできなかった。

この話は、イザナギが黄泉の国にイザナミを取り戻しに行く日本神話の話と全く同じプロットである。

黄泉の国へと降りて行ったイザナギがイザナミをこの世に連れ戻す条件は、イザナミが神々(黄泉の国の住人)と、この世に戻る話し合いをしている間、けっしてイザナミの姿をみてはならない、というものだ。

あまりに待たされるので我慢できなくなったイザナギはついにイザナミの姿を見てしまう。約束を破り、蘇る前の醜い姿を見てしまった夫に怒り狂ったイザナミは、驚いて逃げるイザナギを黄泉の比良坂まで追いかける。

多少の違いはあるもののこの話が同根であることは疑いがないだろう。

そんなことを調べているうち、もうひとつギリシャ神話と日本神話の類似点に出会った。

ギリシャ神話に豊穣の女神デメテルという神がいる。デメテルにまつわる神話はアマテラスの岩戸隠れに関わる神話。アマテラスとスサノオに関わる神話と極めて類似する点がある。

デメテルは愛娘を奪われると悲しみで食物を一切口にしなくなるが、バウボが性器を露出して奇妙な踊りを始めたのでついに食物を摂った。(岩戸隠れとアメノウズメの裸踊り)

デメテルの弟神ポセイドンは、嫌がるデメテルを騙して強姦してしまう。デメテルは怒り、洞窟に籠ってしまう。(スサノオの乱暴狼藉とアマテラスの岩戸隠れ)

スサノオの乱暴狼藉とは、実際はアマテラスへの乱暴という意味であると言われる。神話ではスサノオはアマテラスの機織りをする機屋に馬を投げ入れるなどの乱暴狼藉を行ったので怒り狂ったアマテラスは岩戸に隠れる。

一方、デメテルは、追ってくるポセイドンをかわすため馬に化けるが、ポセイドンも馬に化けて近づき、ついにデメテルと交わる。

ポセンドンとデメテルの交わりの結果生まれたのは、アレイオンという神馬であるが、アマテラスとスサノオの間に生まれたのは宗像三神である。

スサノオはアマテラスの弟神であり、海の支配者、根の国の支配者。ポセイドンは、海の支配者であり、地下世界の神。

日本神話とギリシャ神話は同根の要素を持ち、その淵源は恐らくシュメール神話にある。

シュメール神話には、イザナギイザナミ、アマテラス神話を合わせたような話がある。

これらを追っていけば両文明の深い繋がりはさらに明らかになるだろう。

東洋における日本文明の孤独と孤立と独自性の淵源は、東洋(極東)にあって日本文明だけが何故か地中海の古代文明と多くの類似点を持っているということと極めて密接な繋がりがある。

このことはさらに突き詰めれば、やがて日本文明とユダヤ・キリスト教文明との繋がりから、両文明間の「受け渡し」「引継ぎ」「新たなる提示」へと繋がってゆくのである。

それは、

『一周回って原点に戻る』

すなはち、

『原点回帰』

といった意味あいを含んでいる。

(写真:揖夜神社-いやじんじゃ、黄泉比良坂)

この世に中心軸はない 真理は一つではない

ならば唯一という発想自体矛盾している。

銀河には中心があるかもしれないが中心に重要な何かが存在しているわけではない。玉ねぎの皮みたいなものだ。中心点だからなにがしかの圧が関わっているかもしれないが。

別に銀河が宇宙の中心でもない。

いくつかの中心点を持った寄り集まりが、有機的にあるいは無機的に繋がっている、連携している、あるいは自立している、独立している、その集合体が宇宙だ。

よって「神」という概念も同様である。

唯一最高神などというものは存在しない。個々人にとっての、あるいはなにがしかの集合体としての、ということはあり得るが。

従って唯一最高の存在があるとして、それのみを認め、それ以外のものを破却するということは宇宙のバランスを崩すことに他ならない。

全てにおいての真理は一つという概念も実は間違っている。

日本とギリシャ・ローマ社会との酷似性について

ポンペイは人口1万人。イタリア南部に位置し、ローマ帝国の植民都市であった頃、火山噴火によって一瞬にして消滅した。紀元前79年のことである。

町の歴史は紀元前700年頃からあるが、ローマに占領されたのは、紀元前89年。ローマの影響下にあったのはわずか10年ほどということになる。

紀元前89年以前は、ローマ帝国に属さず、ギリシャなどの影響を受けつつイタリアの先住民の支配する都市であった。

ある書物から、ポンペイの町の様子、家内での生活風習が描かれていた。それは、日本の江戸期くらい、あるいはもっと言えば昭和40年代くらいまではあったであろう日本の生活風景とみまがうものがある。

日本の古来からの生活風景は、近隣の中国などの古代の生活風景とも似ている部分もあるが、むしろポンペイのほうがはるかに親和性が感じられるのである。

少し長いが以下に引用する。

「ローマ人はことの他風呂が好きだった。古代都市ポンペイは、紀元前79年夏のヴェスビオ火山の大噴火で埋もれたのだが、そこには公衆浴場が6つもあった。」

「ポンペイの街の一角を歩くだけでも、いたるところに神々があふれていた。壮麗な神殿のなかでなくても道路に立てば、辻神に出会う。それらの神格は辻神崇拝組合によって奉じられ、いわば小さな町域の守護神としてあがめられていたのである。それぞれの家々には家の守護神ラレースと先祖の霊が祭られている。神殿の形をした神棚があった。」

「朝目覚めると、健康と家内安全を願って神棚に手を合わせる。家の中庭にはバッカス(酒と豊穣の神)の胸像が設けられ、今日一日の楽しからんことを念ずる。」

「神棚には、家の守護神とともに、ユピテル(天空神)・ユノ(女性的資質を備えた女神)・ミネルヴァ(芸術・技術・智慧などを司る神)の三主神(ローマ帝国の三主神)を祭る保守派の家庭でも家内の一角に外来のイシス女神(エジプト由来の豊穣・愛・再生の女神)のお社を奉献していることもある。」
(写真/文章 いずれも「多神教と一神教」岩波新書より)

写真の地図中の*印が街の通路にある辻神の社である。いかに多いかがわかる。

日本の生活習慣習俗信仰との不思議な符合は何を意味するのか。

天皇とアニミズム

戦後、マルクス史観をもった学者が神道を論じる際に、神道と天皇を切り離して論じたがった。

神道は本来天皇とは関係ないものだと。

確かに「天皇」以前にも神道的習俗はあっただろう。

しかし、天皇を除外した神道などほとんど意味がなく、仮に天皇が神道と関わる歴史がなければ、今頃神道などというものは、単なる一地域一地域に伝統的な風習としてなにがしかの行事が残る程度で、到底文明としての構成力などあり得ない。

文明観とか国家観とか、そういった概念で神道を語るだけの見識や「勇気」すら不足していたのが戦後しばらくのこの国の学会のありようだとも言える。

だったら偉そうに明治維新を語るなと言いたいし、結局日本史の否定だ。縄文しか語る視野がなくなる。(実際そういうスタンスの学者もいるだろう)

当然ながら、別に縄文を否定しているわけでも悪いというわけでもない。縄文も日本にとっては極めて重要な要素である。

しかし、そこまで戻らなければ神道を語れないという、そういう思想は結局、私に言わせれば「負け犬」の論理でしかないのである。それこそが日本史へのニヒリズムである。

第二次世界大戦で日本が敗戦したということは、日本文明が西洋文明に屈したということだ。幕末以降の圧力についに屈したということでもある。

そこで「日本史」を否定したら、もうそれは魂まで奴隷化したことと同じになる。自ら進んで奴隷になる必要はないだろう。

そういう視点で神道を論じ日本文明を論じ天皇を論じるという「見識」がこれからのこの国には必要であろう。

そういう見識を持った上で神道とアニミズムとの関係や縄文と神道の成り立ちを論じるのは問題ないのである。

私に言わせれば神道をアニミズムだ、という話はこのくらい重要な要素をはらんでいる。

まさか天皇をアニミズムの族長だなどというならばそれはもうこの国への侮辱でしかなくなる。

ならばそういう人々は、ローマやエジプトの皇帝や王をアニミズムの族長だと言うのだろうか。

日本の神道をアニミズムだというのは人種差別

誰が神道はアニミズムだと言ったのか分からないが、恐らく西洋人の受け売りで発言したに違いない。

アニミズムというのは要するに未開の土人のような人々が自然の脅威に恐れおののきこれを神として崇める行為を発端としているのだろう。

神道の原初的自然崇拝にそういう側面があるのは事実である。磐座や山岳信仰にはそういう側面がある。しかし、以下の点についてはどう説明するのか?

神道には自然神と人格神が並存あるいは習合しているが、これはエジプトやギリシャ、ローマあるいはメソポタミアの多神教文明に現れる神々の体系とほぼ同じである。

彼らの信仰にも自然への脅威という側面はあるのである。

ただこれらの文明の神々と日本文明の神々との扱いの違いは、日本の神々は人格神であっても偶像崇拝はしないということだ。そういう意味では一神教文明の信仰形態に近い。

西洋人たちは、エジプトやギリシャローマ、メソポタミアにおける多神教文明をアニミズムとは呼ばない。

彼らの文明と脈絡があるからそうは呼ばないのである。これらの文明の起源をアニミズムだという話を私は聞いたことがない。

未開の一段劣った人種や民族が行うレベルの低い信仰形態をアニミズムと呼ぶということだ。

従って我々日本人が自らの文明をアニミズムだなどと呼んではならないと言うことになるだろう。しかし、アニミズム的な要素をも含んでいる、と言うことはできるだろう。

(写真 : シュメールの都市ウルの主神である月神シン)

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