日本武尊一族、物部一族、足利一族(源氏も含む)、徳川一族。これらの氏族は強力な武力集団であり、三河地方は日本史上の武家(軍事)政権が密接に関わってきた地域である。興味深い事実である。

また、日本史の大きな変動期には西から東への移動が起こる。尾張地方を含め、三河地方は西から東への力の移動を引き起こす際の「重要な力場」ともなっているように思われる。

さらに、日本史において、東から西に権力が移動したのは、唯一足利氏による室町幕府のみである(織豊政権を除く-織豊は東(尾張)から西)。しかし、その移動においても三河は重要な力場となっているのである。

尾張地方、尾張氏との関わりを含めればさらに面白いことになるであろう。

◎日本武尊一族

岡崎市内を流れる矢作川に日本武尊に関わる故事と神社がある。日本武尊は、十二代景行天皇の第二子。

矢作神社-東征の折、尊は矢作川にさしかかった。矢作の民が、賊に苦しめられているという。賊を退治することになった尊は、民に矢を作ることを命じた。民は川の中州にある竹を用いて一万本の矢を作る。尊はこの矢をもって賊を討ち果たす。

五十狭城入彦皇子陵墓(宮内庁管轄)-岡崎市西本郷町字和志山にある。日本武尊の弟にあたる人物。皇子を祀る矢作川の右岸に位置する和志取神社(岡崎市西本郷町字御立)の社記によると、勅命によって逆臣・大王主等を討ち取りこの地方を平定したという。日本武尊に同行した弟五十狭城入彦は、何らかの理由でこの地に留まったのであろう。三河長谷部氏は皇子の祖氏であるという。

五十狭城入彦皇子陵墓(wiki : https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Washiyama-kofun_haisho.JPG)

大碓命墓(宮内庁管轄)-豊田市猿投町大城。大碓命を祀る猿投神社の裏山にある。『古事記』によれば、大碓は小碓(日本武尊)に殺されたとされ、『日本書紀』では、蝦夷征伐の命を恐れて逃亡し、美濃国に封ぜられたという。何らかの理由で、五十狭城彦皇子とともに三河に留まったものと思われる。猿投神社には古来より「左鎌」を奉納して祈願する習慣がある。大碓命は左利きで、この地の開拓に使ったであろう大碓の左鎌を奉納する習慣がいつからか始まったという。大碓がこの地を治めていたであろうことが推測される。

三河には日本武尊の兄弟二人の陵墓がある。単に東征の通過点というより、一族が何らかの理由でこの地に留まり、一帯を治めたと考えるのが自然であろう。

◎物部一族

古代の有力な軍事氏族。物部一族が三河の国造に任ぜられ、この地を治めた。三河物部氏の支族として、平岩氏、荻生氏(荻生徂徠で知られる)、弓削氏、桜井氏など多数存在している。

謁播神社(あつわじんじゃ)-十三代成務天皇により、三河国国造に任ぜられた知波夜命を主祭神とする。知波夜命は、出雲色大臣五世の孫。出雲色大臣は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の三世の孫。若桜部氏,勇山(いさやま)氏,物部(もののべ)氏などの祖とされる。

真福寺-物部守屋の二男、物部真福創建。神仏習合様式の寺院。天台宗管轄。父守屋が、蘇我一族に滅ぼされた後、聖徳太子に願い出て、当時建立の許可を得て創建された。父守屋を滅ぼした太子に願い出て寺を建立する真意はいかばかりか。

しかし、この寺からそのような「怨念」を感じる気配はない。美しく整理された気持ちの良い寺院である。父守屋と違い、息子真福は、案外合理主義者であったのかもしれない。本堂内内陣下には、水源があり、ここより湧き出でる泉がこの寺院の本尊となっている。寺院内には、八所神社(旧物部神社)及び奥宮がある。奥宮は、いまだ物部一族の神気漂う霊地となっている。

寺院の本尊を仏教の像物に依らず、水源を本尊としているところにこの寺の真髄がある。後述するが、水源信仰は、役行者開創に関わる寺院が多くもつ傾向であるという。蘇我氏らが持ち込んだ百済仏教の流入以前から存在した水源信仰にヒントを得て、真福がこの“寺”の開創を得たのであろうか。

村積山-物部守屋の二男、物部真福により山上に村積神社が建立されている。山頂には、磐座がある。三輪山に類似した雰囲気があり、物部氏の何がしかの陵墓となっている可能性が高い。四十一代持統天皇は、死の三月前、三河を行幸し、この山を参拝した。麓には、手植えの桜がある。

持統桜-西暦702年(大宝元年)この地を行幸された持統天皇により手植されたという桜。およそ500年前に枯死したが、残りの枝を使い再興された。持統天皇は死の三月前にこの地を行幸され、およそ一月に渡り滞在したという。大宝という年は、孫の文武天皇により大宝律令が制定され「日本」という国号が正式に決められた年である。このように重要な年に、死を前にした持統天皇は何を思い、物部氏の治めるこの地を訪れ、一月も滞在し、物部氏の守り神の鎮座する村積山を参拝した上、自ら桜を植えたのであろうか。

北野廃寺-法隆寺は物部守屋の邸址に建立されているとか。守屋を滅ぼした蘇我、聖徳太子派は、守屋の屋敷跡に仏教興隆の拠点、法隆寺を建設する。北野廃寺は、白鳳時代、法隆寺と同じ伽藍配置(四天王寺式)の寺院である。この伽藍配置は、日本国内でも法隆寺、四天王寺、及び北野廃寺にしか見られない形式であるという。物部氏の氏寺であったとされている。この寺が廃寺になっているという事実に、物部一族の”無言の誇りと抵抗”が現れているように思えるのだが。
謁播神社の記録を見る限り、日本武尊一族の統治後、守屋の死以前から、物部氏がこの地を治めていたであろうことが推測される。wikiなどの記述によれば、丁未の乱により、守屋の死後、守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったとされる。守屋の二男真福は、この時、同族が治めていた三河の地に逃れ、この地で生活したのか。あるいは、丁未の乱以前から、二男坊の真福はこの地を治めるよう父からの命を受けており、乱を免れることができたのか。いずれかであろう。

◎源氏、足利一族

滝山寺-役行者開創とされる。寺院の裏山には、水源があり水体薬師の霊水とされる。恐らく、この水源が大本の信仰源になっていると思われる。役行者開創の伝承を持つ寺院の多くは、山岳信仰、水源信仰に関わる山寺であるという。

この寺は、初め物部氏に庇護された。本堂の棟木には、「沙門永救、檀那、物部朝臣、伴氏女」という記述があるという。

物部氏の後、熱田大宮司家が大壇那となる。熱田大宮司藤原季範夫妻の孫、寛伝上人はこの寺の僧侶となる。祖父藤原季範は、源頼朝の祖父でもある。寛伝上人が頼朝の従兄弟であるということから、滝山寺は、鎌倉幕府の熱い庇護を受けることになる。以前書いたが、頼朝は名古屋の熱田神宮付近で生まれている。

室町時代に入ると、三河を本拠地とする、三河足利氏の庇護を受け、最盛期を迎えた。江戸期には、徳川氏の庇護の下、寺院内には、「東照宮」が設置された。

八剣神社-足利尊氏の供養塔がある。神社敷地は足利尊氏の屋敷であったとされる。元来三河は足利氏の拠点であった。三河足利氏を祖とする一族には、室町時代からの大名家細川氏、吉良上野介で有名な吉良氏の他、駿河の大名家今川氏などがある。

◎徳川一族

岡崎市は徳川家康の生誕地であり、市内には所縁の史跡が数多く存在する。徳川についてはあまりにも有名なのでここでは細かく記載しない。

こうして見ると、三河は日本の武家権力に関わる臍(へそ)のような場所ではないか。物部から徳川まで有力な軍事氏族によって治められてきた。

物部守屋は外国からの文化の流入に激しく抵抗した。徳川氏は「鎖国」という手段で外国からのあらゆる流入を遮った。明治以降の日本の世界的勃興は世界史の奇跡の一つであろう。それを成し得たのは徳川300年の戦略なくしては語れない。徳川時代は、世界史的にみても稀にみる平和で豊かな社会を生み出した。300年の「充電期間」がなければ、明治以降の日本の勃興はあり得なかったであろう。

三河地方は日本史の重要な裏面的バックボーンのひとつになっているようである。

”持統桜”がこの地域の”重み”を静かに語り伝えている。

(写真はgoogle検索による 持統桜、持統天皇陵、五十狭城入彦皇子陵墓)

持統天皇陵(出典:wiki https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Noguchi_Obo_Kofun,_haisho.jpg)
Exit mobile version