自分は映画が好きで、もう数千本は観ている。最近はあまり観なくなったしまったが。ヤクザ映画とホラー物がどうも好きになれなくて、観ていなかった。
しかし、もう観る映画もなくなってきた頃、東映の任侠物を何本か観た。
その中に、「山口組三代目」「三代目襲名」「昭和残侠伝」など、高倉健主演の映画があった。意外であった。実に面白かった。この作品から、任侠映画への価値観が変わった。日本独自の文化を表現する作品群でもある。
中でも驚いたのが、高倉健の異様な存在感であった。昨日、長野で地震などがあったから、それでテレビを観ていたら高倉健のことを放送していた。
初め映画俳優になりたての頃、「お前は目が普通じゃないから俳優には向いてない」、と映画関係者から言われたそうだ。
しかし、上記シリーズにおける、異様な存在感を感じさせる理由が、まさにその「目」であった。
「こんなすさまじい目つきの俳優は観たことない」
そう思った。そういう意味で、高倉健と言えば、上記三作品が自分にとっての彼の代表作である。後期から晩年の作品にはこれほどの「切れ味」はない。健さんも時代とともに、人間が丸くなったのに違いない。
この映画がきっかけで、ヤクザとか任侠というものに興味が湧いた。
戦前、特に江戸時代までは、やくざは、社会から差別された者や、犯罪者など誰にも相手にされない人々の面倒を見る立場の人間であった。その代表が浅草弾左衛門である。
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弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。
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このあたりが、やくざ、所謂「任侠やくざ」の起源だと思う。れっきとした役職であった。
元公安の有名な人物が、
「任侠やくざは必要。しかし、今は全て規制しようとしている。結果、かえって、裏社会の統制がとれなくなって、犯罪が悪質化したり、犯罪に歯止めがきかなくなっている」
的な発言を聞いたことがある。少し前までは、何か犯罪があると、やくざの親分に問い合わせすれば、すぐに犯人の名前や居場所が分かったとも言う。だんだんそういうことができない社会になってきているのだと。
やくざにもいろいろな種類があるらしく、「任侠やくざ」というのもそのひとつのカテゴリーであるが、最近はほとんどなくなっているという。
「三代目襲名」という映画は戦後の歴史を知る上で、重要な作品でもある、戦後、在日の朝鮮人などが「自分達は戦勝国人だ」と威張り散らし、日本人に対して横暴、犯罪やレイプなどし放題の時代があった。当時の警察は日本人以外を取り締まる権限がなく、彼等の行為に対しては無法状態となっていた。戦後7~8年間に渡る進駐軍による占領時代の話である。
そこで、警察の代わりにやくざが朝鮮人達の横暴を取り締まった。映画ではそんなシーンが出てくる。
自分も最初は、所詮映画だから、誇張かと思ったが、調べると事実であった。当時は警察からも暗黙の依頼というか了承のもと、双方に交流関係があったらしい。そんな時代もあった。
これは戦後昭和の裏面史である。このあたりを深く掘り下げてゆくと、日本の戦後社会と言うものの重要な一部分が見えてくる。
その後、やくざと在日朝鮮人は次第に手打ち(和解)を重ねる中で、習合されていった。この流れが現在に至っている。
何でも習合するのが、日本の文化、社会の特徴ではある。
そのようなわけで、健さんには、いろいろと学ばせていただいた。
(写真:第13代浅草弾左衛門)
以下、wikiより弾左衛門に関する歴史詳細。とても興味深い内容なので、お時間あれば読まれることをお勧めします。
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戦国時代は小田原近在の山王原の太郎左衛門が関東の被差別民の有力者であり、弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかったとされている。ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる。1590年後北条氏が関東の支配権を失うと、徳川家康が代わって支配者となった。小田原太郎左衛門は、後北条氏より出された証文を根拠に引き続き被差別民の支配権を主張したが、徳川家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという。
弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、傾城屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した。1708年、京都の傀儡師小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴えた。弾左衛門は敗訴したため、傀儡師・歌舞伎は弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。1713年初演の歌舞伎十八番の一つ『助六』は、市川團十郎 (2代目)が弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は、1709年に死去した弾左衛門集誓をモデルにしたと言われている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した(1722年)。非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれた(ただし、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)。
身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式1万石、財力5万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった。
『弾左衛門由緒書』等に依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり、1180年、鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張する為のものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている。
弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸1-8-13)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、300から400人の役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない。
幕末に活躍した第13代弾左衛門は、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、慶応4年1月(1868年)に配下65名とともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと、1889年(明治22年)に死去した。弾(矢野)家の菩提寺は、屋敷跡向かいにある浄土真宗(大谷派)本龍寺(元和3年(1617年)建立)である。

