彼は、日本人の起源は「疑いもなく」バビロン諸島人の一部であると断じている。なぜそこまでの確信を持ったのであろうか。

ケンペルは江戸元禄時代に長崎の出島に居住しつつ、医師学者として日本全国をつぶさに観察し回り、「日本誌」という極めて詳細な内容の研究書を著した。

この時代の日本は、現代よりもはるかに日本の「本来の形」を残しており、医師としての科学的なあるいは冷静冷徹な目で見、分析し感じた内容を記載した文献であるといえる。

同時に現代の諸外国人よりもはるかに「偏見のない」形で日本という国の印象を語ることができたはずである。
これは、ケンペルの率直な「日本」という国と人に関しての感想と分析によるものである。

人が、何の知識も経験も偏見も持たない「真っ白な状態で」いきなり訪れた所で、感じる印象や直感、感覚は真実に近いと考えるべきであると思う。

なぜケンペルがこのような結論を導いたのかは知らないが、そう感じたのであろうし、その後明治時代迄に訪れた複数の西洋人が同様の印象を得たということは特筆に値するであろう。

幕末に来日したシーボルトも同様の印象を語っている。

以前私は、日本に初めて来日したルーマニア人を接待したことがあった。彼は日本についてこのように語った。

「日本には複数の民族がいるのか。この国には色々な顔がある。仕事で中国などへも行くが、地域によってだいたい同じような顔つきだが、この国は違う。不思議であると。」

以下、「日本誌 上巻 1巻第6章 日本人の起源について」(昭和48年霞ケ関書房発行)の訳文(抜粋)。

(この文章の前にヨーロッパ及びアジア等における諸国語の起源と他言語との関わりについての考察がある。)

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ところで日本語は、その単語や特徴全体をスペイン流の厳格な調査法で考察すれば、日本の国の起源や同系統を推測せしめるような隣接諸国との言語上の繋りや混淆を示すものは何もない。

日本人の隣接民族と言えば、海を隔てた大陸に居住し、船で日本を訪れているシナ人である。

シナ人は、3大要地別に南京(ナンキン Nankin)語、潮州(ちょうしゅう Tsjaktsju)語、福州(ふくしゅう Foktsju)語を話すが、日本人はシナ人が日本へ持ち来たった品物の名称は別として、シナ人が話すこれらの言葉は全然解し得ない。

シナの品物とともに伝わったシナ語が日本で使われているからといって、それはポルトガル人がパン(Pan)、パルマ(Palma)、ボタン(Botan)、カッパ(Cappa)、フラスコ(Frasco)、ビードロ(Bidorn)、トタン(Tanta)というような単語を日本語の中に残したのと同じことであり、このような単語が日本人の間で使われていたとしたところで両国語の繋りを結論づけるわけにはいかない。

この地に移住したシナ人は、日本人に芸術、学問あるいはかれらの文献や文字などを伝えたが、その数は日本語を一変するほど多くなかった。

シナの文献や文字が日本人の他に朝鮮人やトンキン(東京)人など、シナに隣接する諸国の人々の日用語の中にもとり入れられていることは、あたかもヨーロッパ人の間でラテン語が使われているのと同じことである。

日本語の構造と特殊性は、日本人の起源をシナ人であるとする推論と全く相容れない。

日本語はシナ語と非常に異なり、日本人がシナの書物を音や訓で読む場合、決して文句を棒読みにはせず、単語を顛倒(てんとう)したり、挿入したりして文意を整え、自国語本来の構造に直すのである。

だから日本人がシナの書物を翻刻する場合には、読み易くするために、本文の傍に小さく記号を書き添えて、句読を示すのである。

日本人の舌や発声器官がシナ人と構造的に異なるのか、声の出し方が全然違う。日本語の発声はほとんど例外なしに簡単明瞭であり、単語の綴りも2~3字以上のものは稀だが、シナ語は一般にいくつかの子音を重ね、抑揚をつけて歌うように発音する。

個々の文字についても同じような違いがある。日本人のHの発音はFに近いが、シナ人は両者をはっきり区別して発音する。日本人のRとDの綴りの発音は、出だしが多少咽喉にかかるが、非常にはっきり区別されている。
ところがシナ人は、とくにナンキン語の場合には、RもDもなく、外国語に堪能な人にその発音を音標的に書かせると、Lと書くより仕方がないという。

以上日本語とシナ語の違いで言ったことは、そのまま朝鮮語や蝦夷語についても当て嵌まる。だが日本人の起源を朝鮮や蝦夷だと考えた者はいないから、この点についてこの場所でこれ以上述べることは不必要であろう。
日本とシナ両国の宗教の相違は、われわれの考えからすると非常に重要なことである。

もしも日本人がシナ人から出たとするならば、シナ人は、シナの宗教や礼拝の方式を日本へ移し、人の住まぬ新しい国土に拡め、その子孫に遺し伝えたに違いない。

しかし日本人の先祖伝来の古い宗教は、かれらが神道(しんとう Sinto)といい、その崇拝の対象物を神(かみ Cami)と呼んでいる独自のものであり、世界の他の民族は、この日本の神々を知らないし、その宗教的儀式をとり入れていない。

一方日本人もまた同様に、西暦66年垂仁(すいにん Synnin)天皇の御宇に、釈迦(しゃか Sjaka)の教え、すなわち仏道(ぶつどう Budso)の外来宗教儀式が高麗(こうらい Corey)を通じて伝来し、弘通するまでは、異国の神々や宗教を知らなかった。

歴代天皇が宗教には比較的無関心であり、異教の弘通を大目に見ていたので、仏道はその後シナその他の諸国から渡来した多くの法師によってますます全国的に弘められた。

だがこの新しい教法は、志操の揺るがぬ日本人の信仰する神道を駆逐することはできず、仏教が弘まれば弘まるほど、古来の宗教を守る神主達は、新しい神社、神祇、神話を立てて、神道を鼓吹した。

私は、さらに日本人をシナの後裔なりとする説の謬りを立証するために、両民族の古代文字や、古代の地図を引き合いに出すことができる。

これらは互いに少しも似たところがない。日本人の古い粗雑な文字とシナの象形文字とを比べてみると、このことがよく解る。

これと同じように両民族は、飲食、睡眠、衣服、結髪、挨拶、作法その他風俗習慣など、日常の生活様式が互いにまるで違っている。

両民族の性情も少なからず異なっている。シナ人は温和であり、落ち着いており、謙虚であり、沈思黙考の生活を好む反面、奸智に長け貪慾である。日本人はこれに反し、武を尚び、とかく事を企て、興奮し易く、栄耀栄華を夢み、名誉欲が強く、極端から極端へ走る傾向がある。

以上述べたところ総合し帰納すれば、日本人は独自の原種的な民族であるということになる。

途中どれほどの年月を費やしたかはにわかに断じ得ないが、この民族は疑いもなく、直接にパビロン諸島人の1部が流れ流れてこの島に辿りついたのに違いない。

しかしその途上、他の諸民族の所には長逗留せず、少なくとも途中の民族とは混淆しなかったことはまずたしかであろう。

そうでなければかれらがバビロンの言語混乱の際に、持っていた独自の言葉が異国の言葉と混淆することなく保存され得たとは考えられないからである。

これはヨーロッパ諸民族やインダス河の西側に住むアジア諸民族の言葉についても言えることである。

このように遠い辺境の地にある民族で、他国の言葉と混淆せぬ純粋の自国語を持つ民族は、世界中どこにも見当たらない。

つまりわれわれが今とり上げている日本民族は、シナ人やトンキン人やシャム人と同じように、幸いにもあまり長くかからずして地球の片隅に天与の地を探し当てたのである。

恐らくはかれらは移動にあたり、まっすぐにアジアの東へ抜ける道を徒渉し、比較的短い年月でアジアの東境に到達し、眼前にこの巨島へ至る遙かな道があるのを発見したのであろうと推断される。
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日本誌(日本帝国誌) 上巻

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