幕末期、多くの西洋人が来日した。当時の武士階級は、何か不手際が起こると、いとも簡単に腹を切った。そのような様子を目の当たりに見た西洋人達は、震え上がった。日本人というのは恐るべき民族である。この国を征服することは、慎重に進める必要があると考えた。

鎌倉から、.江戸までの期間、武士階級は、戦が負けと分かると、

「もはやこれまで」

ということになり、城を守る主だった武将の多くは切腹した。

江戸期に入り長く平和な時代が続くと、武士の存在意義は薄れた。 江戸時代の武士階級が自らのアイデンティティーを見出すための生き様として、一老武士が考えた『葉隠』思想。 つまり、

「武士道とは死ぬこととみつけたり」

という文言から、戦のない平和な時代の中で、戦に勝つことよりも、死ぬことに価値をみいだし、重きを置いた江戸武士の美学がここに生まれる。

昭和期、対米開戦直前に発令された戦陣訓には、

「生きて虜囚の辱めを受けず」

とあり、これが戦時中いたずらに兵が死に急ぐことを増やすことになった元凶であると言われている。

「敵に捕まり、生き恥をさらすくらいなら自ら命を絶て」

昭和の軍人は、江戸期に誕生した「葉隠思想」に引きずられて、戦に勝つことよりも、死ぬことで軍人精神を全うしようとする傾向もあり、いたずらに優秀な軍人が死に急ぐ面があった。「切腹」とは本来、最終的な結末の時点において行われる行為である。

こういった考えの対局に、武士には、「一矢(いっし)報いる」とか、「刺し違える」という思想がある。

これは、自らの敗勢が濃厚となった場合、命を落とす前に、一人でも多くの敵を討ち果たそうとする意志を表す。

「切腹」「葉隠」「一矢報いる」「刺し違える」「特攻」とは、これら、鎌倉から江戸期までの日本の武士階級の中に息づいた人生観、生き様、死生観の発想の延長線上から生まれたものであることは確実である。

戦後に入り、特攻という出来事と、「国体」「国家神道」「天皇」などとが結び付けられ、あのような悲劇の源泉として、これらを否定攻撃する論調が流行った。

マルクス史観とは、過去の歴史や文化文明を全否定することで成立する、ひとつの宗教である。これまでの人間の歴史は、全て悪であり、略奪、搾取、抑圧によって民衆を地獄の底に突き落としてきた。共産主義革命によって、これらを完全に粉砕することで初めて理想の社会が誕生するのである。

こういう考えを日本史に落とし込んだものが、戦後の占領政策によって強制された歴史観であるが、日本の歴史にマルクス史観は全く当てはまらない。

国体とは、その国の国柄、文化、文明を表す根幹としてのもの、を言うのであって、日本の場合、それは、日本文明の主軸たる神道の祭祀王としての天皇のことを言う。

天皇とは、日本という国柄そのものであり、日本の文化文明を自ら継承し、体現する大元であり、その代表である。日本の場合、国家と文明の成り立ちは天皇の存在によってしか明確化できない。天皇がいなくなれば日本という文化文明は自動的に消失するのであって、変わりにそれを担う、あるいは、それほど巨大な遺産を背負うことができる者は誰もいない。

現代において、あたかもイギリス国王と日本の天皇を同列に扱う傾向にあるが、両者の存在意義は全く異なっている。

奈良期までの天皇を除き、それ以降の天皇の存在意義は、西洋におけるローマ教皇、あるいはチベットのダライラマと同列に見なされるべきであり、イギリス国王は、日本で言えば、徳川将軍家や足利将軍家に近い。ここにも大いなる誤りと誤解がある。

秀吉、家康は、キリスト教の徹底的な禁教政策を行ったが、これは、当時の西洋諸国がキリスト教を媒介として、他国を侵略するための道具として活用していることを見抜いたからである。

スペイン、ポルトガルから、イギリスなどの植民地帝国主義国家が隆盛を極めた時期、日本は、キリスト教を禁教とし、鎖国政策をとって、これら西洋強大国からの侵略の脅威を未然に防いだ。これは軍事的のみならず、文明の保護としての側面をも担った。

幕末期に入り、さらに西洋からの脅威が高まると、ついに鎖国のみでは国家文明の守護が不可能になってくると、一転、開国し、西洋の科学技術を取り入れ、近代兵器を開発し、これに対抗する手段に出る。

和魂洋才と当時言われたが、日本の文明的な側面を防衛するための手段として、その最大のものが、「国家神道」であったと言えるだろう。

西洋の優れた技術を取り入れることで、西洋列強からの侵略の脅威に備えつつ、日本の文化文明を防衛し、かつその存在意義を明確化する方法として、明治期の「国家神道」は成立した。

「国家神道」は、当時、日本の文明的な価値を防衛し、かつ自らの文明の意思表示として成立したのであって、軍国主義や全体主義を強要する装置として成立したものではない。

また、古代から現代にいたるまで、日本が全体主義になったことは一度もないということも理解しておかなければならない。全体主義とは、社会主義の一形態であって、王政や天皇政とも、立憲君主政治とも対局に位置するものである。 昭和期、日本は軍事中心の政治体制になったが、戦時下においては、世界のどの国においても、いつの時代も、軍事中心の政治体制になるのであって、イギリスにおいては、戦時中の首相は海軍大将のチャーチルであった。日本の戦時下においての政治体制は、当時のイギリスに最も近かったと言えるだろう。ファシズムやナチズムとは似ても似つかぬ体制であったが、三国が同盟したために、あたかも同一のものとして扱われた。

「お国のために。天皇陛下万歳」 と言わされて、無理やり戦争に狩り出され、特攻までさせられた。

特攻は、職業軍人を除き、全て志願である。ここにも誤解や誤謬の意識がある。

江戸時代までは、武士階級以外が戦争に参加することはほとんどありえず、明治に入り、階級制度がなくなって、国民皆兵となる。日本もまた近代総力戦の洗礼を受けることになった。

武家や武士のDNAを受け継ぐものには、受け入れられてもそうでないものには、預かり知らぬことである。死を覚悟するなどとんでもない話である。

また、第二次世界大戦においては、空襲、原爆等で膨大な民間人が悲劇に巻き込まれた。これもまた、日本史において経験のない悲劇であった。

この戦争で、さまざまな価値観、死生観を持つものが戦争に参加し、悲劇を経験することになり、戦争という概念のとらえ方に多様な認識が生まれることにもなったのである。

特攻という攻撃形態の誕生は、日本の武士階級の価値観、死生観から生まれたものであり、「国体」「国家神道」「天皇」のいずれとも無関係である。

「国体」「国家神道」「天皇」の3つがなかったとしても特攻は生まれたであろうし、武士階級とその歴史がなければ、「国体」「国家神道」「天皇」の3つが存在しても特攻は起こりえなかったであろう。

「国体」「国家神道」「天皇」は日本文明の保護装置としてのそれであって、それ以外の事情は存在しない。ちなみに、イギリス、スウェーデンなどの国家はキリスト教を国教としているが、日本における、国家神道の位置づけはこれと同義である。 昭和初期の最大の過ちは、日独伊三国同盟の締結にあったのかもしれない。

ドイツ、イタリアと日本とでは、政治形態も当時の世界の中における立ち位置も全く違っていた。

しかし、第二次世界大戦とは、結局、アングロサクソン国家群+共産主義国家群と、後発の先進国家群との争いであるという意味あいにおいてのみ、三国は共通の立ち位置にあったと言える。

ただし、日本だけは、自国及びアジア地域への西洋からの脅威への対抗という側面が幕末以降、大東亜戦争終結にいたるまで一貫して存在した。

戦後の占領政策により、特に昭和期以降における「西洋からの脅威への対抗」という、勝利者にとっての「不都合な真実」は意図的に消去された。 とはいえ、戦争敗北の責は、戦争開始を決断した、当時の政治家、軍人にある。 最近になり、大東亜戦争の世界史的な意義が強調される傾向があるが、たとえどれほど正当な理由があったとしても、負けは負けであり、あの戦争によって被った莫大な国家的、文化的、文明的な喪失と損失に関してその責を負うべきは当然のことと言える。

(文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』)from wiki)

Exit mobile version