精霊の宿り木となる

古来より、木、岩、山、などに精霊や神の霊が宿ると言われてきた。

しかし、常にそこにいるわけではなく、一時的に降臨するための宿り木である。

神社もそう。

儀式や祭礼に伴い、必要に応じてそこに「宿る」。

物であれ、生き物であれ、それはそこに勝手に「宿る」のか。

そうではない。それは場が伴って初めてそういうことが起こる。「場」のないものや生き物に神霊も精霊も人霊も宿ることはあらず。

新世紀の文明とは、人間もまた神殿となることだ。

人が神殿となれば、組織化する必要もない。自然に起こる。起きるべきことが起こり必要なものが整う。それは自然と共同作業になるだろう。

個人から発露する神政文明になる。

人間の知識や欲望にのみ支えられる文明は、現代文明で終了するだろう。これ以上行き先がないからである。

しかし、宿り木になるためには、人間が理解できない意識や意思を受け入れる受け皿である必要がある。

これは容易ではないのである。

特に現代人にとっては困難があるだろう。

みそぎはらへ 二九八一二

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