平田篤胤は、秋田久保田(佐竹氏)藩の藩士(大番組頭 大和田清兵衛祚胤)の子として生まれ、その後江戸へ出ると岡山備中松山藩士平田藤兵衛篤穏の養子となり平田篤胤となる。
その後、本居宣長の直弟子を自称しつつ、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学の大家となり、幕末尊王思想、ひいては維新期の思想的支柱とされるにいたった。
そのような人物がここ秋田、東北の地に出現したことは意外の感もあり、また充分に認識しておかなければならないことである。
秋田には護良親王の系譜が生き永らえたという言い伝えがある。秘められた尊皇への思いの源泉がそのあたりにあるやもしれぬ。
秋田駅から徒歩15分ほど。平田篤胤生誕地がある。戦前まで、この場所にも多くの人が訪れ、また重んじられもしたであろうわずかな痕跡はある。しかし、今では人知れぬように、ひっそりと雨に濡れている。
そこから歩いてさらに10分ほど。大きな屋敷(人家のようであった)の一角に、終焉の地の碑が大松に抱かれながらその姿を見せる。
お屋敷の一角ということもあり、それなりの威容を感じる碑である。碑のある場所として、なかなか整備されたものだ。
その屋敷の表札を見たが、平田ではなかった。
碑のすぐ後ろの庭の隅には、古い祠が見えた。これは篤胤以来のものだろうか。
そして秋田駅に戻り、線路を挟んだ反対側。秋田大学の裏山に篤胤の墓がある。
以前は寺があったようで、佐竹氏の墓もあるのだが、「正洞院跡」の碑のみで、寺院自体は廃寺となったようだ。
いくばくかの空地と、ただ、佐竹氏の墓標のいくつかだけが残っている。そして、それより山上の階段を上がったところに鳥居があり、その奥に篤胤の墓がある。
墓標の両脇には、
「古今五千載之一人」「宇宙一万里之独歩」
という文字が彫り込まれているのが見える。
火葬ではなく、遺言に基づいて、本居宣長のいた伊勢の方角を向いて埋葬されていると言う。
今、訪れる人はどのくらいいるのか。
雨の中、天津祝詞を唱えてゆく。
ふと目を開けると左手のほうに線香の煙のようなものが上がって見えた。
篤胤の由緒地を辿れたのは偶然であった。
導かれたと思う。幸運であった。

