戦後、マルクス史観をもった学者が神道を論じる際に、神道と天皇を切り離して論じたがった。

神道は本来天皇とは関係ないものだと。

確かに「天皇」以前にも神道的習俗はあっただろう。

しかし、天皇を除外した神道などほとんど意味がなく、仮に天皇が神道と関わる歴史がなければ、今頃神道などというものは、単なる一地域一地域に伝統的な風習としてなにがしかの行事が残る程度で、到底文明としての構成力などあり得ない。

文明観とか国家観とか、そういった概念で神道を語るだけの見識や「勇気」すら不足していたのが戦後しばらくのこの国の学会のありようだとも言える。

だったら偉そうに明治維新を語るなと言いたいし、結局日本史の否定だ。縄文しか語る視野がなくなる。(実際そういうスタンスの学者もいるだろう)

当然ながら、別に縄文を否定しているわけでも悪いというわけでもない。縄文も日本にとっては極めて重要な要素である。

しかし、そこまで戻らなければ神道を語れないという、そういう思想は結局、私に言わせれば「負け犬」の論理でしかないのである。それこそが日本史へのニヒリズムである。

第二次世界大戦で日本が敗戦したということは、日本文明が西洋文明に屈したということだ。幕末以降の圧力についに屈したということでもある。

そこで「日本史」を否定したら、もうそれは魂まで奴隷化したことと同じになる。自ら進んで奴隷になる必要はないだろう。

そういう視点で神道を論じ日本文明を論じ天皇を論じるという「見識」がこれからのこの国には必要であろう。

そういう見識を持った上で神道とアニミズムとの関係や縄文と神道の成り立ちを論じるのは問題ないのである。

私に言わせれば神道をアニミズムだ、という話はこのくらい重要な要素をはらんでいる。

まさか天皇をアニミズムの族長だなどというならばそれはもうこの国への侮辱でしかなくなる。

ならばそういう人々は、ローマやエジプトの皇帝や王をアニミズムの族長だと言うのだろうか。

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